3月31日


――もう・・・今日が終わっちゃう・・・!

部屋で寝間着に着替えたさくらが、時計といつまでもにらめっこしていた。
小狼の帰りを23時まで待っていたが、遅くなると言う言付けをもらい、さくらはその場を外した。
そして、さくらが入浴している間に、小狼が帰ってきたようだった。
『おかえりなさい」が言えなかった事にも後悔したが、小狼に会うタイミングを完全に逃したことが悔やまれる。
もう、今日しかないというのに。

――どうしようどうしようどうしよう・・・!小狼様に・・・小狼様の側にいられなくなっちゃう・・・

考えに考えた末、0時になるほんの5分前に部屋を出た。この際、寝間着であることを気にしてなどいられない。
それよりも、もっと大切なことがあるのだから。

コンコンっと、軽く小狼の寝室の扉をノックする。
返事が返ってくる前に、ゆっくりとドアノブを押した。

「失礼します・・・」
「なっ・・・!」

ネクタイをほどいた小狼が、夜中の訪問者に思わず声を上げた。
目を見開いてさくらの姿を捕らえる。

「お帰りなさいませ、小狼様」
「・・・・・・ああ」

ぽすんと小狼がベッドに腰掛けた。
さくらはおずおずと小狼の前へと歩みを進める。

――予想外の来客だ・・・。こんな時間に、そんな格好で、普通男の部屋に来るか・・・?

ちらりとさくらの姿を再度確認して、小狼がため息をついた。
ここは主人の寝室といえど、仮にも男の部屋である。
女性が夜中に寝間着で訪ねるような場所ではない。

「どうした・・・その・・・そんな格好で・・・こんなに遅くに・・・」
「お願いに来たんです」
「え?」
「小狼様・・・どうか・・・その・・・わたしをやめさせないでくださいっ。ここに、小狼様のお側に置いてくださいっ」
「・・・もう決めたことだ」

すぱっと小狼が言いはなった。
さくらが胸の前でぎゅっと手を組んで、今にも泣きそうな顔をしながら訴える。

――そんなことを言うためにここに来たのか・・・?

小狼はさくらのその表情にズキンと胸を痛めた。そんな顔をさせたいわけじゃないのに、と。
そして、その後ろにある時計に目をやった。
時刻は0時2分を指している。

――4月1日・・・

スッと立ち上がると、小狼は小さな机に向かい、置いてあった小さな箱を手に取った。
きゅっと軽く箱を握りしめてから、さくらの元へと戻る。
そして、そっと箱を差し出す。

「誕生日、おめでとう」

――えっ

さくらがバッと振り返って時計に目をやる。
日付変更線を越えてしまった。
4月になってしまった。
“今月でやめてもらう”
3月1日に言われたその言葉の有効期限がきたということを示していた。

「・・・いただけません・・・」
「何故だ」
「さくらが欲しいものはひとつです。小狼様、もう一度、わたしをメイドとして側に置いてくださいっ。 わたし・・・他に行く場所がないんです・・・どうしてもここに・・・いたいんです・・・」
「・・・さっきも言ったはずだ。もう、決めたことだと」
「ですからっ・・・」
「もう、さくらはメイドじゃない」
「っ」

そう言い、小狼がさくらを抱きしめた。

「この間言ったことは嘘じゃない。さくらが好きだ。だからもう、メイドとして側には置けない」
「小狼・・・様・・・」
「さくらは・・・おれの事が嫌いか?」

さくらが頭を横に振る。
嫌いなら、側にいて欲しいなどと懇願したりなどしない。
欲しいのは“メイドの仕事”ではない。“小狼の側にいられる場所”だ。
お金のためでも、小狼のためでもない。自分の『欲』以外のなにものでもない。

「じゃあ・・・返事を聞かせて欲しい」

そっと、小狼がささやいた。

――言えない・・・言えないよ・・・。身分が違いすぎる。わたしが言っていい言葉じゃない・・・!

「言えません・・・」

ぽろっと一滴、涙が伝った。
嫌いじゃない。好きだ。でも言えない。
小狼が自分を好きだという事実を、まだ受け止めきれなかった。

「くそっ」
「きゃっ」

ドサッと小狼がさくらをベッドに押し倒した。
ぼふん、と布団がふたりを抱き留める。

「もう嫌なんだ!さくらを、使用人として、メイドとして見るのは嫌なんだ!!」
「しゃおら・・・」
「だから、メイドをやめてもらうと言った!それに、メイドのままでは、おまえは何と言ってもおれの言葉を受け取らないだろう。 おれは、ずっと・・・っ」
「・・・・・・」
「ずっと・・・おまえを・・・ひとりの女の子として見てきたんだ・・・」
「・・・・・・」
「好きなんだ・・・」

小狼の真剣な瞳が、まっすぐさくらを捕らえて離さなかった。
苦痛の表情も、激しい口調も、さくらは初めてだった。
小狼が本気なんだという証でもある。
ドクン、ドクンと大きく鼓動が高鳴るのをさくらは感じていた。

「わ・・・たし・・・」

つうっと涙がさくらの頬を濡らす。
どうしようもない嬉しさと、どうしようもない虚しさがこみ上げてくる。
どんなに好きでも、この身分差を変えることなど出来ない。
小狼は主人で、自分は使用人だという思いが、さくらを鎖のように縛っていた。

「わたし・・・小狼様を・・・お慕いしています・・・。 でも・・・だから・・・ここに、側に、メイドとしていさせてください・・・。他に・・・行く所などないんです・・・。 この家を出てしまったら、きっと、もう・・・小狼様に会えない・・・」

ぽろぽろと流れる涙を、さくらがごしごしと手の平でぬぐう。 小狼が静かに起き上がり、さくらの体を起こした。
手に持っていた小さな箱、さくらへのプレゼントを目の前に差し出すと、リボンを解き、ふたを開ける。
中に輝くのは小さな小さな指輪だった。

「メイドとしてでなく・・・ずっと側にいて欲しい。それじゃダメか?」
「え・・・?」
「母上にも・・・その・・・なんとなく話はしてある・・・」

そう言うと、小狼は指輪を取り出して、さくらの左薬指に通した。
指輪に光る宝石は、小さな小さなダイヤモンド。
さくらの誕生石だった。
最初から、小狼はさくらを手放すつもりはない、その証の指輪でもある。
むしろその逆で、永遠に縛り付けておきたい、ということだ。

「・・・いけません・・・。わたしみたいな娘ではなく・・・きちんとした良家のお嬢様の方が小狼様にはふさわしいです・・・。 わたしなんか・・・」
「さくらじゃなきゃダメなんだ」
「もっと素敵な女性がたくさんいらっしゃいます。メイドを選ぶなんてこと、なさらないでください・・・」
「今はメイドじゃない」
「わたしなんて・・・」
「さくら!!」

突然激しい口調で呼ばれて、さくらが言葉を止めた。
ぎゅっと、力強く、小狼がさくらを抱きしめる。
順番をすっ飛ばしていることなど、とうに承知している。
だが、このくらいの事をしないと、さくらは信じてくれないだろう。
気持ちも確かめずに、プロポーズするなんて、自分でもどうかしてると思った。
けれど、さくらは言ってくれた。
『慕っている』と。
そうなれば、もう迷う必要などない。

「っ」
「どうしてわからないんだ・・・おれはさくらがいい。さくらじゃなきゃ嫌だ。欲しいのはさくらだけだ」
「・・・・・・」
「ずっと・・・側にいてくれないか・・・。メイドとしてじゃなく・・・おれの側に・・・」
「しゃおら・・・さま・・・」
「さくら・・・」

小狼が優しくさくらの名を呼ぶ。ただ、それだけでさくらは切なくなった。
瞳から、また涙があふれ出す。
もう、悲しいのか嬉しいのか、驚いているのか怖いのか、わからない。
色んな感情がぐちゃぐちゃになって、さくらの心を締め付けた。

「もうおまえはメイドじゃない。この家の使用人じゃない。だから・・・」

そっと腕の力をゆるめて、小狼がさくらと視線を合わせる。

「本当のことを言って欲しい。本当に嫌なら・・・それで構わない・・・」
「わたし・・・」
「・・・・・・」
「わたし・・・ずっと・・・小狼様を・・・見てました・・・。告げてはいけないと・・・思っているんです・・・」
「うん。それで?」
「・・・・・・好きです・・・小狼様・・・。ずっとお側にいたいと・・・思ってます」
「・・・よかった」
「でも、こんなに、大切なこと・・・」
「いいんだ。もう、決めたことだ。さくらを手に入れると」
「・・・もし、わたしが嫌だと言ったら・・・どうするおつもりだったんですか・・・?」
「簡単さ。振り向かせるまでだ」
「小狼様・・・」

くすりと笑いあう。

「もう一度だけ言う。おれの側にいてくれないか」
「・・・はい。それが、小狼様の望みとあれば・・・さくらはどこまでもお供します」
「全く・・・そういう事を言って欲しいわけじゃない」
「・・・?」

コツンと額と額がぶつかる。

「明日も明後日も、その先もずっと共に行こう。肩を並べて」
「小狼様・・・」
「もう上下関係はなしだ。おまえはおれの一番近くにいれば、それでいい」
「・・・はい」
「・・・本当にわかってるか?」
「え?あの・・・たぶん・・・」
「まぁ、いい。時間はたくさんある」
「・・・小狼様。小狼様こそ、わかってないことがあります」
「?」
「わたしが・・・さくらが、小狼様のこと、大好きだってことです」
「・・・そうか。よく、わかった」

甘く、長い口づけを交わす。
ふたりが、主人と使用人ではなく、恋人同士である、その証に。
その気持ちを確かめるために。
今までの秘めた期間を取り戻すかのように。
何度も・・・何度も・・・。



ようやく、長い冬が終わって、春がやってきた。
桜が芽吹き、草が生い茂り、花が咲き乱れる季節。

小狼にとって、さくらは春のような存在だった。
頑なだった心を開いてくれた。笑顔を思い出させてくれた。
あたたかな春のような存在だった。

さくらにとって、小狼は太陽のように真っ直ぐな存在だった。
冷たい雪を溶かして、たくさんの陽射しを降り注ぐ。
いつも、真っ直ぐで真剣に、向き合ってくれる。
そして、優しい存在。
桜が芽吹くために必要なものを、与えてくれる存在。

運命があるのなら、二人の出会いは運命。
二人が恋に落ちることも、運命。


さあ、春がやってきた。
おだやかな春が・・・。

La primavera…



**fin**  2007.07.05. 2011.09.改訂