3月29日

――今月もあと3日でおしまい・・・。なのに、小狼様・・・ずっと・・・理由を話してくださらない・・・。 わたし、やっぱりやめなきゃいけないのかな・・・

まだ主人の帰らない夜。
さくらは小狼の部屋で小狼の帰りを待ちながら、壁に掛かったカレンダーを見て思った。
すでに時刻は22時を回っている。
16日に行われた高校の卒業式以来、小狼はさらに多忙になった。
大学に入る前にやることがたくさんあるらしく、泊まりがけの日も少なくない。
主人の帰ってこない部屋はしんと静まりかえり、いつもは気にならない時計の秒針がやけにうるさく聞こえる。
さくらはまるで留守番をさせられた子犬のようだった。


ふいに、カツカツと軽い足音が聞こえて、ソファに腰掛けていたさくらが立ち上がる。

――もしかして!

そして、キイっと静かに扉が開く。
そこに現れるのは紛れもなく、この部屋の主人であった。

「お帰りなさいませ、小狼様っ」
「あ、ああ、ただいま」

笑顔で小狼を迎えること。これは、さくらが決めたルールのひとつだった。
ずっと、そのことは変わっていない。たとえ、“やめてもらう”という宣言をされていても。
小狼から脱いだスプリングコートを受け取り、丁寧にハンガーに掛けてクローゼットにしまう。

「シャワーを浴びてくる。紅茶を用意しておいてくれないか」
「かしこまりました。アイスティーでよろしいですか?」
「ああ」

そう言うと、小狼はバスルームへと消えていった。
その背中を目で追いながら、さくらはきゅっと唇を結ぶ。
あと何度、このやりとりができるのだろうか・・・と思う。
そう思ってから、頭を振って、頼まれた紅茶を用意しに給仕室へと向かうのだった。


カランと氷が溶ける音が室内に響く。
少し砂糖の入ったストレートティー。フルーツフレーバーの紅茶はすがすがしく、風呂上がりには最高の飲み物だ。

「小狼様、明日のご予定は・・・」
「明日も出かける。泊まりがけだから、明日は帰らない」
「承知しました。朝は・・・」
「母上に呼ばれてるから用意しなくていい」

――・・・もう一緒に食事を取る日はこないのかな・・・

「さくら」
「は、はい」
「・・・前に言っていた・・・“やめてもらう理由”なんだが・・・」
「っ」

その言葉にさくらが固まった。
内心、小狼がそのことを忘れていてくれればいいのにと思っていた。
自分をやめさせる理由を・・・やめさせるという事実さえも。
そして、自分をここにおいて欲しいと思っていた。
聞きたくない、無意識にそう思ってしまい、さくらが下を向く。

「さくら、こっちを見ろ」

目をそらしていたさくらに、小狼が言った。
ためらいがちに、さくらが顔を上げる。
真剣な瞳が、さくらのことを捕らえた。もう、逃がさないと言わんばかりに。

「はい・・・」
「ごめん・・・ただの,おれのわがままなんだ・・・」
「・・・・・・」
「さくら・・・おれは・・・」

そっと、小狼がさくらの頬に触れる。

「おまえのことが好きだ」

――え・・・?

「メイドとしてじゃなく・・・ひとりの・・・女の子として。 だから・・・もう、メイドとして側に置きたくない。ただ、それだけなんだ」

――どういうこと・・・?

「また、帰ってきたら話そう。それじゃ・・・おやすみ」

パタン。
半ば放心状態のさくらに背を向けて、小狼は寝室へと消えた。

――小狼様が・・・わたしを・・・好き・・・?そんなこと・・・


さくらはハッと我に返ると、ライトを消し、自分の部屋へと戻った。
慌ただしく服を着替え、ベッドに潜り込む。
しかし、寝付けそうにもなかった。

“おまえのことが好きだ”

小狼のその言葉と声が、ぐるぐると頭の中を旋回し、さくらは頬を染めた。

――そんなことない・・・きっと・・・違う。わたしなんか・・・わたしなんか・・・小狼様に好きになっていただく価値なんてない・・・。 でも、そうしたら、どうして、そんなことを言うのかわからない・・・。 でも、本当に小狼様がわたしのことを好きでいて下さるのなら・・・どうしてやめさせるのだろう・・・。 わたし・・・わたし・・・どうすればいい・・・?小狼様の側にいたいだけなのに・・・