「す、すみませんっ小狼様っ」
「おはよう」

バタバタと慌ただしくさくらが小狼の部屋に姿を見せる。
最初の日の朝、さくらは見事に寝坊して現れた。 寝坊と言っても、ほんの10分程度だが、10分は大きい。
さくらは少々寝起きが悪く、いつも目覚まし時計をいくつもかけているのだが、 部屋を移ったばかりで、目覚まし時計をセットするのを忘れたようだ。

「おはようございますっ」
「やはり、慣れない場所では時間もずれるか」

自室に用意された朝食テーブルの前に座り、新聞を広げて小狼が言った。
テーブルには二人分の朝食が置かれている。
さくらが来たので、小狼は新聞をたたみ、顔を上げた。
そこには申し訳なさそうにさくらが立っていた。

「さくら」
「は、はい」
「服が違う」
「え?」

指摘されてさくらがぱっと自分の服装を見る。
どこからどう見ても、いつも着ているメイド服と変わりはない。
もしかして専属のメイドには専属の服があるんだろうか?
「あの・・・」
「学校の制服に着替えてこい」
「え、でも、あの」
「いいから。早くしろ。でないと紅茶が冷める」
「は、はいっ」

小狼に言われて、さくらは大急ぎで書斎を抜けて自分の部屋へ戻った。
そして、学校の制服を取り出す。

――どうして小狼様は制服に着替えろ、なんておっしゃるんだろう・・・

自分はこの邸宅ではメイドで、小狼の前で学校の制服姿になるのは学校だけと思っていただけに、 まさかここで制服を着ることになるとは思いもしなかったのだ。
車で出かける小狼を見送ってから、制服に着替えて、徒歩で学校に向かうつもりだった。
真っ白なブラウスに、赤いリボンを結び、白いニットのセーターを着る。 スカートは膝丈の上品なものだ。
私学なだけあり、可愛いと評判の制服でもある。
男子は学ランで、高等部になるとブレザーになる。 逆に、女子は高等部はセーラー服である。

「お待たせして申し訳ありません」
「よし、ちゃんと着替えてきたな」
「あ、あの・・・」
「座れ」

小狼が自分の向かいの席を指し示した。

「そ!そんなこと!小狼様と同じテーブルだなんてっ」
「朝食も用意させたんだ。食べてないだろう?早くしろ」
「だ、ダメです、小狼様っ」

ぶんぶんと手を振って拒否を表す。
主人と同じテーブルに座って、同じ食事を取るだなんて、 今までのさくらには考えられない事実だった。

「座るんだ」

じっと小狼がさくらのことを強い視線で見て訴えた。

「・・・失礼します・・・」

その視線と口調に負けて、さくらがおずおずと席に着く。

「では、食事にしよう」
「あの・・・本当にわたしがご一緒してもよろしいんでしょうか・・・」
「ああ。おれがそうしたんだから」
「では・・・いただきます」

そうして、静かに朝食が始まった。
今朝は寝坊してしまったので、食堂へは行かず、直接小狼の部屋に来ていた。
小狼は他のメイドからそれを聞いたのであろう。 さくらが来たときに、既に食事が二人分用意されていたのはそのためだ。
さくらは大勢で取る食事に慣れている。むしろ、ひとりでいる方が少ない。
しかし、小狼は逆にひとりで食事を取る方が多い。特に、朝食はいつもひとりだった。
誰かと一緒にとる食事の方がどんな人だって嬉しいに決まっている。
口にはしないが、小狼もそんな朝食に嫌気がさし、良い機会だから、と、さくらをこうして同席させた。
明日から、朝食はいつも同席させよう、と考える。

「おいしいっ・・・あ・・・すみません」

一言声を上げて、さくらは『しまった』という顔をした。
はしたない、と思われただろうか。

「別に、構わない」

そんなさくらに心の中でくすりと笑いながらも、 表には決して出さずに小狼が言い放つ。
しかし、さくらはそんな小狼の優しさにうれしくなった。
メイドとしてではない扱いが、少しくすぐったくもあった。



「小狼様、そろそろお時間です」
「ああ、わかった」

小狼に学校のカバンを差し出し、さくらが出発の時刻を告げた。

「いってらっしゃいませ」

カバンを受け取った小狼がその言葉にぴたっと止まる。

「・・・・・・さくら」
「はい。あ、何かお忘れになっていることでもございましたか?」
「・・・おまえも行くぞ」
「わたしは小狼様がお出かけになった後でも間に合いますので。 お気遣いありがとうございます」
「いいから。早くカバンを持ってこい」
「・・・・・・しかし・・・」
「中等部と高等部の門は同じだ。何か問題でもあるか」
「メイドであるわたしが、小狼様と一緒に登校するべきではないと思います」
「学校では関係ない」
「・・・小狼様と一緒のお車に乗せていただくなんて・・・。 それに、今は桜並木がとても綺麗な時期なんです。 車では楽しめないこともありますし、 どうぞさくらの事など気になさらずにお出かけ下さい」

さくらがにっこりと答えた。
邸宅から学校までは徒歩30分程度。 小狼はいつも早めに行って、静かに読書をしたり、生徒会の仕事をしたりしている。 そのため、さくらとはいつも登校時間が違っていた。
さくらは邸宅の入り口まで続く桜並木や、 学校までに通るまだ活気のない商店街や公園の側を通るのが好きなので、 徒歩でも全く気にならず、むしろ楽しんでいた。

「そうか・・・」
「はい」
「では、今日は歩こう」
「えっ」

小狼の一言にさくらが思わず目を見開く。

――歩く!?小狼様が!?

「行くぞ」
「え、あ、あの・・・小狼様!?本気ですか?」
「本気だ。その桜並木、見てみたくなった」
「お、お車でも通ります!」
「たまには歩くのもいい。今日は特に用事がある訳じゃない」
「しゃ、小狼様〜・・・」
「つべこべ言わずに来い。道を知ってるのは、さくらだからな」
「・・・・・・はい」
「全く、おまえは朝から『でも』とかばかりだ」
「すみません・・・」
「怒っているんじゃない。ただ、こちらの意図も汲み取ってもらいたいな」
「え・・・」

さくさくと歩いていく小狼の後ろを、大急ぎで鞄を取りに行ってから、 さくらがついていった。
そして、建物の玄関を抜ける頃には肩を並べて歩いている。
その距離にさくらはどうしようもなくドキドキしていた。

――どうしよう。どうしようどうしようどうしよう! 小狼様と並んで歩くなんてっっっ あとで奥様にしかられないかな・・・?!

そんなさくらをよそに、小狼は空を見上げたり、庭の木を愛でたりしている。
学校まで送るのを断られた運転手はその様子を後ろから眺めていた。
小狼様が学校まで歩かれるなんて・・・とこぼしながら。


「おい」
「は、はい。何でしょうか?」
「道案内を」
「え?」
「おまえが後ろを歩いていたんじゃ、おれが道に迷うだろう」
「あ、そ、そうですねっ。失礼いたしました」

再び少し距離を開けて後ろを歩いていたさくらに小狼が言った。
ぱたぱたと小走りに距離を詰め、小狼の隣に立つ。

――ぜっっったいに小狼様の前は歩かないんだからっ・・・!

そう、心に強く思いながら、さくらはきゅっと口を結んだ。
小狼が道を知らないというのは実は少々嘘で、小狼だって少しは知っている。
しかし、こうでも言わないと、さくらがこのまま 距離を開けて後ろに後ろに行くことなど、分かり切った事だった。

――初日だからな・・・こんなものなんだろうが・・・

ちらりとさくらを見て思う。
自分より一学年下の彼女を、専属のメイドなどにして本当に良かったのか、と。
それでも、小狼は自分のした決断に迷いはなかった。

「小狼様、こちらです」
「ああ」

さくらの道案内で、ふたりでぎこちない空気のまま、学校の正門まで向かった。
さすがに門に近くなるとちらほらと生徒の数が増え、 正門あたりではたくさんの生徒が通る。
何人かの生徒が、小狼の姿を見て驚きの表情と、会話を友人同士で交わした。
“こんな時間に、李君が歩いてきている”“隣にいる女の子は誰だ? 中等部の制服だけれど・・・”“彼女!?”
李家の跡取り息子である小狼は有名人だった。車での送り迎えも、昔からのことなので知れている。
成績もトップクラスで、体育もよく出来る。すらりとした容姿や家柄を含めれば、 ポーカーフェイスで無愛想なところなど、格好良く見えるものだ。 性格が良いとは言えないが・・・それもまた、ひとつの特徴だ。
怖がられることもあるし、人が寄ってくるタイプではないものの、“一般人とは違うオーラ”みたいな ものだと思われている。
そんなざわざわした空気の中、ふたりは一言も交わさずに歩いて行った。

「おはようございます、さくらちゃん」
「え、あ、おはよう、知世ちゃん」

さくらに声をかけてきたのは大道寺財閥の令嬢、大道寺知世だ。
彼女は財閥の娘ながら、小学部の頃から車での送り迎えを拒否し、 自由気ままに生活している。
少々変わった性格で、何にでも動じない子だった。

「小狼様、ご紹介します。クラスメイトの大道寺知世さんです」

さくらの隣をあるく小狼に、同じくさくらの隣を歩き出した知世を紹介した。
小狼が知世に視線を向けると、知世がにこっと笑みを返す。
知世の微笑みは、先輩に対するものではなく、あくまで表面的なつきあいの微笑みだった。
その笑みを見て、小狼がふうっと小さく息を吐きながら言った。

「知っている」
「え」
「大道寺財閥のご令嬢だろう。パーティーで何度か姿を見かけた」
「ほ、ほえ・・・」
「私も、存じていますわ。李小狼さん。李家の一人息子さん、ですわよね」
「・・・ああ」
「そんなに警戒なさらないでくださいな。私はさくらちゃんのお友達、というだけですわ。 小狼さんには迷惑かけるつもりはございません」
「・・・・・・」
「と、知世ちゃん・・・」
「じゃあ、さくら。おれはここで」
「あ、はい。行ってらっしゃいませ」
「ああ」

門をくぐって、高等部と中等部へとの分かれ道で、小狼とさくら・知世は別れた。
中等部の昇降口に向かいながら、知世がさくらに話しかける。

「小狼さんとさくらちゃんが一緒にご登校なさるなんて、珍しいですわね。今日は雨でなければ良いんですが・・・」
「うん・・・」
「まぁ、何かありましたのね?」
「ちょっと・・・。ね、あとで聞いてくれる?」
「もちろんですわ」

にっこりと笑って知世が言った。
知世とさくらは小学生からの友達で、一番の親友だった。
さくらが李家でメイドをしていることを知っているのも、友人の中では知世だけ。
知世も、財閥の令嬢であるからして、家の中にはメイドや執事、 運転手などがたくさんいて、 そんな存在に慣れっこであり、また彼らを大変大切にしていた。
さくらがメイドだからといって、何か特別な扱いをすることはなかった。


誰もいない朝の音楽室。
合唱部に所属している知世と一緒ならば、怪しまれることもない。

「あのね・・・昨日ね」
「はい」
「小狼様が、わたしを・・・専属のメイドに指名してくださったの」
「専属のメイド?」

知世が首をかしげる。
大道寺家には個人専属の使用人はいない。 母についている秘書を使用人と呼ぶにはほど遠い。
屋敷内のメイドは、知世の部屋担当など、役割分担はされているものの、個人に付いているわけではない。

「うん。お姉様方にもいらっしゃるの。専属の使用人が」
「一体どんな役職なんですか?」
「個人にお仕えするの。お出かけについていったり、お部屋のお掃除とか、お手伝いとか、お茶を運んだり・・・とか・・・」

「常に側にいるメイドや執事、といった感じですね。小狼さんの専属にさくらちゃんがなった、と」
「・・・うん。それでね、昨日小狼様の部屋の近くにお部屋を頂いたの」
「まぁ、どんなお部屋なんですか?」
「とっても広くて綺麗。家具もちゃんとあって、使ってなかったお部屋だなんて思えないんだけど・・・」
「だけど?」
「殺風景だから何かそろえようって、小狼様が」
「お優しいんですね」
「洋服も・・・ちゃんとしたのがなきゃ外に出られないって・・・。 わたし、学校の制服とメイド服と・・・他はちょっとしか持ってないから・・・」
「お外にも一緒に、ということなら必要ですものね」
「今日はね・・・朝、一緒に朝食・・・頂いちゃって・・・」
「素敵ですわね」
「車で一緒に、なんて言われるからつい・・・歩くのも素敵だって・・・言っちゃって」
「桜並木が綺麗な季節ですし、今日はお天気も良いですから」
「そうなの。そうしたら、小狼様も歩くっておっしゃって・・・それで・・・」
「おふたりで登校なさったんですね」
「うん」

申し訳なさそうにさくらが言った。
さくらからすれば、一緒に朝食をとることも、一緒に並んで歩くことも、 一緒に登校することも、贅沢で仕方がなくて、 同時に、自分の本来の立場をわきまえなければという感情が働くのだった。

「小狼さんがよろしい、とおっしゃったことなら、さくらちゃんがそんなに落ち込むことはありませんわ」
「そうかな・・・?」
「小狼さんなりの、さくらちゃんへの気遣いなのではないでしょうか」
「気遣い?」
「自分より年下の、こんなに可愛いさくらちゃんを専属に指名するんですもの。それなりの扱いをしなければ」
「そ、そんなことないよ!だって、わたし、ただの使用人で・・・!」
「専属に指名された時点で、“ただの”ではないと思いますよ」
「・・・・・・」
「それにね、さくらちゃん」
「?」

にっこりと、優しい微笑みを浮かべて知世がさくらを真っ直ぐに見つめた。

「ひとりで食事をとることは、とても寂しいことですわ。近くに人がいるのに、ひとりで食事だなんて、 おいしい食事もおいしくなくなってしまいます」
「・・・うん・・・」
「だから、さくらちゃんと朝食をお召し上がりになりたかったのではないでしょうか」
「え?」
「小狼さんだって、ポーカーフェイスですけれど、寂しい気持ちはありますわ。気づいて差し上げれば、簡単なことです。 それに、小狼さんは意外と顔に出るタイプですから」

くすくすと笑いながら知世が言った。
知世はその生まれながらの環境のせいか、周りの人間の表情を見たり、心を見抜く観察力に長けている。
小狼のことも、さくらの話や、数度見かけたパーティーや校舎内、たったそれだけで判断できたようだ。

「小狼様・・・顔に出るかなぁ?」
「ええ、とっても」
「そうかなぁ・・・」
「くすっ。ところでさくらちゃん」
「な、なに?」
「お洋服が必要、とおっしゃいましたよね?」
「うん。今度見に行くかって小狼様が・・・」
「でしたら、私に作らせてはいただけませんか?」
「え!?」

知世の一言にさくらが驚いた。

「つ、作る?」
「ええ。実は、今度新しく洋服のブランドを立ち上げるんですの」
「知世ちゃんが?」
「もちろん、名義は母ですけれど、デザインや内装などは私が担当させていただくことになっているんです」
「すごーい!・・・で、何でわたし?」
「試着というか・・・その前段階というか・・・。モデルのようなものになっていただきたいんです」
「モデル?」
「着心地とか聞かせていただければ嬉しいですし、デザインのアイディアなんかも頂けたら嬉しいですし・・・。 もちろん、作ったお洋服は差し上げますわ」
「そ、そんな、わたしなんかじゃ・・・」
「いいえ、さくらちゃんにお願いしたいんです。ティーンをターゲットにしたブランドですし・・・ それに、さくらちゃんに着ていただけたら私も嬉しいですから」
「え?」
「いえ、何でもありませんわ。いかがでしょうか」
「う・・・ん・・・。小狼様に相談してみる」
「いいお返事、お待ちしていますね」
「うん。わたしも、知世ちゃんの作ったお洋服、着てみたいもん」

知世の密かな趣味は洋裁だ。服を作ったり、ぬいぐるみを作ったり・・・。
服のデザインも好きで、数十冊とあるクロッキー帳にデザインを描いていた。 それを大道寺財閥社長、知世の母が見抜いて、 今度のブランド立ち上げに抜擢したのだった。



その日の夜、さくらは紅茶をいれた際に小狼に洋服の件を相談した。

「・・・そうか、大道寺のご令嬢が・・・」
「はい。いかがでしょうか」
「おれは構わないが・・・」

そう言って、ちらりとさくらのことを見た。
さくらがその視線に気づき、目をぱちぱちとまばたく。

「な、何か?」
「・・・いや、何でもない。しかし、さくらが知世嬢と友達だったとは・・・」
「ご存じ有りませんでしたか?」
「ああ。あんなに目立つ存在なのにな・・・」
「知世ちゃん、歌上手いですものね。中等部でも有名です」
「でも、まぁ、いい繋がりだとは思うがな。彼女はおまえの事も知ってるのか?」
「え?」
「ここで使用人をしていると・・・」
「知っています。話してあるので。それでも、彼女は何の隔てもなくつきあってくれるんです」
「そうか。今度、礼を言っておいてくれ」
「はい」
「しかし、買い物は行くぞ」
「え?」
「他にも必要なものはある。今度の日曜日、空けておくように」
「小狼様・・・空けるも何も・・・予定はありません。わたしはここのメイドですから」
「・・・そうだったな・・・悪い」
「いいえ。楽しみにしています」

さくらはこの日、初めて小狼とたくさん話をしたと感じた。
それは、業務連絡のような、確認のような、とても親しいと言えるような会話ではないが、 今までは小狼と話すこと自体が本当に業務連絡だったから。

――小狼様・・・確かに、こうして近くでお話すると、ちゃんとお顔に出るかも・・・。 ポーカーフェイスだってメイド内では知れてたから、先入観で見てたのかなぁ・・・。