夜。

キラキラと輝くまあるい月を眺めて、さくらが口をとがらせていた。満月なんて嫌い、と言わんばかりの表情だ。

「さくらー?あんまり夜更かししちゃだめよ?」
「はぁい。もうちょっとだけです」
「満月を恨んでもどうかなるわけじゃないんだから。綺麗だなって思っておきなさい」
「・・・・・・綺麗だとは思ってますよ?」
「でも、顔はそんなこと言ってないもんね。じゃ、おっやすみ〜」
「お休みなさい」

ひらひらと手を振って、すみれはベッドのカーテンを閉めた。
すみれは“夜は寝なきゃやってられない!”という人で、早々に眠りに入ってしまう。
6時間程度寝なければもたないんだ、というのが持論だった。しばらくすると、すみれの規則正しい寝息が聞こえてきた。
時刻は間もなく日付変更線を越える。

―― ちょっとだけ・・・ちょっとだけ・・・覗いてくるだけ、だもん。

そう思って、さくらは手元明かりを持って部屋を出た。

―― 新月の時みたいになってらっしゃらなければいいんだ。 それだけ確かめたいだけなんだもん・・・。でなきゃ心配で寝られないよ・・・。

ゆっくりゆっくり、音を立てないように廊下を進み、小狼の部屋の前にたどり着く。

キイィ・・・。

ぐっと勇気を出して扉を開ける。立ち入り禁止期間ゆえに、入る使用人はおらず、部屋の扉に鍵はかかっていない。
それくらい、この家の使用人には信頼を置いているという証でもあった。
おそるおそる扉を開けていくと、月明かりが溢れる部屋にひとりの人物が立っていた。紛れもない、この部屋の主人である。


「さくらか」
「し、失礼しましたっ。あの、その、心配で・・・!」

見つかってしまったさくらは、あたふたとしながら答える。

「構わない。こっちに来い」
「え・・・」

来い、なんて言われることになれていないさくらは一瞬戸惑ったが、小狼の言うことなので、ゆっくりと扉を閉めて小狼の元まで行く。
近くまで行って、ハッとした。小狼の琥珀の瞳が、わずかに金色をおびている。
表情も、いつもより自信に満ちあふれたような顔だった。
新月の時とは明らかに違う。むしろ、逆と言ってもいいほどだった。
小狼はそっとさくらの持っていた手元明かりをとり、机の上に置く。手元明かりなど必要がないほど、この部屋は月明かりで明るかった。

「小狼、様・・・?」
「さくら」
「っ!」

突然、小狼に抱きすくめられ、唇を奪われた。

「んんっ」
「・・・好きだ」
「しゃ、おらん様・・・?」

再びぐいっと抱きしめられる。

「逃げろ」

耳元で囁かれた言葉は、意外にも“逃げろ”という言葉だった。
その行動の違いにさくらが戸惑う。
逃げろと言っているにもかかわらず、小狼の腕はさくらの身体を捕らえて離そうとしない。

「小狼様・・・?どうか、なされたんですか・・・?」
「は、やく、逃げろ・・・」
「でも、その、腕・・・」

吹きかけられる吐息は熱く、抱きしめている腕は力強い。
言葉とは裏腹である。

「おれが、おれであるうちに、逃げろ・・・でないと、おまえに、何をする、か、わからない・・・!」
「いやです!こんな、小狼様を置いて逃げるなんて出来ませんっ」
「いいから・・・!おれを突き飛ばして逃げろ・・・」
「出来ませんっ」

逃げろと言われても、さくらは逃げることが出来なかった。
とぎれとぎれに発せられる言葉が苦しそうで、どうしても放っておけない。
愛しい人を突き飛ばして逃げるなんてこと、出来るわけがなかった。

「さ、くら・・・!」
「んっ」

再び唇を奪われる。深い、くちづけ。
その行為と、小狼の言葉に、さくらがうっすらと涙を浮かべた。

「っはぁっ、きゃっ」

ドサッとソファに組み敷かれる。
いつもふかふかで、革張りの座り心地の良いソファはさくらの身体をやわらかく受け止めた。

「小狼様、小狼様っ・・・」
「に・・・げろ・・・」
「嫌ですっ。小狼様っ、さくらを見て下さい!小狼様っ」

小狼がさくらの首筋や寝間着のため、広く開いた胸元にキスを落とす。それは、甘く優しい。

「んっ・・・しゃおら・・・さまっ」

さくらのその声に小狼が顔を起こし、さくらの額にキスを落とした。

「小狼様・・・」

そっと手をさしのべ、さくらの両手が小狼の頬を包みこんだ。
さくらの翡翠の瞳と、小狼の金色を帯びた琥珀の瞳がぴたりと視線を合わせた。
小狼の強引さもぴたりと止まる。

「小狼様・・・もう一度言って下さい」
「もう、一度・・・?」

明らかに逃げるチャンスだというのに、さくらは一歩も動こうとしなかった。

「さくらのことを・・・どう、思っているか・・・聞かせてください」
「っ」

さくらは小さな一言でも聞き逃していなかった。ゆえに、さくらの瞳は真剣そのものだった。
頬を染め、かすかに涙を浮かべながらも、その視線は優しい。

「・・・・・・言う、つもりは、なかったんだ・・・」
「でも、小狼様はおっしゃって下さいました」
「・・・さくら・・・」
「はい」

少し荒い息づかいをしていた小狼の胸が上下する。必死に、自分を保とうとしているのだった。
そんな小狼とは逆に、さくらはこの状況でも冷静さを失っていない。

「好きだ・・・」
「メイドとしてではなく、でよろしいですか?」
「ああ・・・」
「よかった・・・」

さくらがゆっくりと、ひとつ、まばたきをした。

「さくらは小狼様が好きです。ご主人様としてではなく、お慕いしています」
「・・・・・・っ」
「だから、さくらは逃げません。小狼様がわたしを求めてくださるのなら、お側にいます」
「さく、ら・・・」

頬に触れていた手を首へと回し、ぎゅっと抱きつく。

「ダメ、だ・・・」

小狼がさくらの腕をほどいて立ち上がり、ふいっとさくらに背を向けた。大きく上下する肩が、今の小狼を物語る。
さくらも身体を起こし、小狼を見つめた。

「行け。この部屋から出て行け」
「嫌です!放っておけません」
「行くんだ!!」
「嫌です!!」

ふたりが大声で言った。お互いにお互いのことを思うからこその言葉。
さくらは立ち上がり、小狼の背中をぎゅっと抱きしめた。

「小狼様がいつもと違う理由は、さくらにはわかりません。 でも、小狼様は小狼様です。苦しそうな小狼様を放って行くなんて、出来ません」
「さくら・・・」

さくらの腕をほどいて、再び向き合う。さくらの頬には涙が伝っている。

「さくらの事が好きだ。大事、なんだ。だから・・・だから、今は、帰ってくれ」
「さくらが側にいたら迷惑ですか?」
「そうじゃない!そうじゃ、ない・・・でも、今夜はダメだ・・・。無理矢理・・・奪いたくない」
「・・・・・・」
「さっき、ごめん・・・さくらの意志も確認しないで・・・」
「いいえ・・・驚きましたが・・・嬉しかったです」
「・・・行け、今なら、大丈夫だから」
「え?」
「おれが、おれでいる間に、行け」
「・・・・・・明日・・・いえ、日が昇ったら・・・来ます。小狼様がダメだとおっしゃっても来ます!それで良いのなら・・・今夜は・・・帰ります」
「・・・わかった・・・」

きゅっとさくらは自分の袖で涙を拭いて、テーブルの上に置いてある明かりを持った。

「明日、全部、話すから・・・」

そう言葉にした小狼の肩は、先ほどよりも荒く上下している。息づかいも荒い。
そんな小狼から離れるのが嫌で嫌で仕方なかったが、さくらは小狼の言っている事なのだからと自分に言い聞かせた。
あんなに必死に、自分から逃げろと言っているのだから、と。
そして、足早に小狼に歩み寄ると、頬にキスをした。

「・・・お休みなさいませ、小狼様・・・」

そう囁くと、さくらはくるりと身を翻して小狼の部屋から出て行った。

「・・・さくら・・・すまない・・・」

さくらの後ろ姿を、一言も声をかけずに見送ってから小狼はつぶやいた。


―― まだドキドキしてる。まだ身体が熱い。

さささっと廊下を駆けるように歩きながら、さくらは自分の肩を抱きしめた。

―― いつもの小狼様とは違った。でも、小狼様だった。

金色を帯びた瞳を思い出しながら、さくらは思った。
李家が魔法を使える一族だということを。きっと、何か関係があるのだろうと。

―― 好きだって言って下さった。キス・・・してくださった。夢じゃない・・・! キスも、囁かれた言葉も、抱きしめられた腕の強さも、全部覚えてるもの・・・!嘘じゃないんだ・・・!

小狼の言う“好きだ”という言葉が、何度も何度もさくらの中でリフレインした。
そのたびに、身体が熱くなる。

―― 小狼様・・・