「じゃ、3日間、歌音をお借りしますよ、湊」
「はいはい。くれぐれもよろしく」

数日後、レコーディングに行く日、連斗君が迎えに来てくれた。
どうやらちょっと山の方にあるスタジオで録音するんだって。
だから泊まりがけなんだそう。
今日がリハーサル・音合わせで、明日が本番らしいの。
どうして3日いるのかわからないんだけれど・・・。

「行ってきます、湊、真珠」
「気をつけてね、歌音。運転注意してよ、連斗」
「ハイハイ。それじゃ」
「行ってらっしゃい」

そうして、真珠の家を出た。
助手席に案内されて、わたしは連斗君の運転する隣の席へと座る。
車はすいすいっと高速道路へとたどり着いた。

「連斗君、透也君は?」
「ん?アイツは先に行ってる」
「どうして?」
「ピアノだけの録音があるからね。それで。おれも無伴奏あるけど、短いし。だから、お姫様を拾って行くよって言ってある」
「なるほど・・・」
「お、つっこまなくなった」
「・・・お姫様?いちいちつっこんでたらキリがないわ。みんなおもしろがって言うんだもの。湊なんてしょっちゅうよ」
「くすくす。歌音も学習したってわけね」
「そうっ」

お姫様扱いされるのがいやだって知ってて、みんな使うんだもの。
仕方がない場面ではいいのよ?
公式の場とか、ちゃんとした所とか。
同級生以外に“歌音様”とか“歌音姫”とか言われるのは慣れてるし、受け流すけれど・・・。
やっぱり友達には“姫”じゃない自分で接したいから嫌なの。
わたしは、わたしだから。
人間界では、そういう意味でも、特別な場所。
姫じゃない、わたしでいられる場所なの。

「なあ、歌音」
「なに?」
「歌音って、海の世界ではお姫様なんだろ?」
「…そうよ?」
「やっぱ、そういう扱いされて育ったわけだよな」
「そういう扱いって?どういう扱い?」
「お姫様」
「人間界ほどじゃないわ。学校も普通に行くし、同級生たちは歌音って呼んでくれるし、敬語もナシ。 まぁ、その他の所では・・・それなりに・・・だけど」
「言葉遣い、違うもんな」
「・・・これでも随分薄くなったと思ってるんだけれど」
「留学期間で?」
「そうよ。ちょっとは気をつけてたんだもの。でも、真理乃さんがいたから、大丈夫だったのかな」
「あはは!真理乃かぁ。確かにそうかもな」
「姫に生まれたことを嫌だと思ったことはないけど…姫じゃない扱いをしてくれる2年間は面白かったし気楽だったわ」
「なるほどね」

人間界ではお姫様じゃない。
歌音様って呼ばれる事なんてない。
わたしの知らなかった世界。
ただの『歌音』でいられた二年間だったの。
それは、私にとって特別な事なのよ。

「歌音、後ろの席のファイル取って」
「え?あ、うん」

連斗君に言われて、後部座席にぽんと置いてあるファイルを、うんと手を伸ばして取った。

「コレ?」
「そう。歌音に」
「?」

中を見てみると、楽譜が入っていた。
何の楽譜かしら・・・。

「今回録音する3曲と、この間言ってたアヴェ・ヴェルムの楽譜」
「わあ、ありがとう」

ファイルからコピーされた譜面を取り出す。
えっと・・・?

「ピエ・イエズはやろうってことで入ってる。おれたちが最初にやった曲だし」
「ええ。わたしも大好き」
「それに、アヴェ・マリア」
「シューベルトの・・・!」
「おれが、歌音の歌うアヴェ・マリア、好きだからさ。リクエスト」
「もしかして、それでこの間この2曲入れたの?」
「まぁ、それもあるけど・・・。もう一曲は新曲なんだ」
「わたしの知らない歌ってこと?」
「そう」

ぱらっとアヴェ・マリアの楽譜をめくって、次の曲のタイトルを見る。
Vesperae solennes de confessore K.399

「ヴェ、ヴェス…」
「ヴェスペレ。この曲の入ってる大きなくくりのタイトル・・・の一部」
「じゃあ、曲のタイトルはこっち?」

Laudate Dominum

「ラウダーテ・ドミヌム。“主を誉め讃えよ”ってこと」
「ということは、これも宗教曲なのね」
「そう。これもモーツァルト作曲。ヴェスペレっていうのは、教会の晩課・・・ 夕方のミサのことなんだ。そこで歌われる歌って事。もともとは合唱なんだけど、 歌とヴァイオリン、それにピアノ伴奏の楽譜を見つけてさ。これいいじゃんってことで」
「へえ・・・どんな曲なのかしら。時間ないのに歌えるかな」
「歌音ならへーきさ。あ、聴く?CDに入ってるから」
「わあっ」

連斗君が左手を伸ばしてピッとオーディオのスイッチを入れる。

「7曲目、だよ」
「はい」

指定された7曲目に移動させて、再生ボタンを押す。
運転中じゃ、危ないから、わたしが慣れないながら操作する。
その様子に連斗君がちらちら見ながら口を出してきた。
こんな機械、海にはないもの・・・。

流れ出す音楽は静かな弦楽。
アンダンテ・・・。

「これはオケ版。だから、ちょっと印象違うかも」
「そうなんだ」

そして歌われるメロディ。
なだらかで、滑るような音程。
静かなのに、とてもドラマチックな音楽。
モーツァルトらしい、音の広がりとハーモニー。
やっぱり、モーツァルトって天才ね・・・。

「あ、合唱付き・・・?」
「ここはおれが弾くから」
「そっか、編曲されてるって言ってたものね」
「そう。どう?いい曲でしょ」
「ええ・・・でも・・・」
「ん?」
「これとピエ・イエズとアヴェ・マリアだと、おとなしい気がするんだけれど・・・」
「まぁ・・・確かにそんな気もするけど・・・でも、歌音の声には合ってると思うよ」
「そう、かな。飽きないかな」
「聴いてる方が?」
「ええ・・・」
「さすが、演奏会慣れしてるだけあるな。そこまで考えるなんて。 いいんだよ、ボーナストラックなんだし、癒し系ってことでまとめれば」
「い、癒し系・・・」
「それに、アヴェ・マリアはわりと情熱的だと、おれは思うけどなぁ」
「・・・そう、ね」
「アヴェ・ヴェルムを合わせるよりはいいでしょ」
「確かにそうね。せっかく選んでくれた曲だものね。ああ、ふたりと合わせるのが楽しみだなぁ」
「その前に、モーツァルトの音取りからだけどねー」
「はぁい。ねえ、もう一回聴いていい?」
「もちろん、何度でも」

そんな話をしながら、クラシック音楽をBGMにレコーディングスタジオまで向かった。