「ねえ、歌音ちゃん」
「何でしょう?さんごさん」
「ほんとーにいいの?」
「はいっ」
チャキチャキとはさみをならしてさんごさんが言った。
「もったいないわよー、せっかく綺麗な髪なのに・・・。
これだけ伸びるのに時間かかるでしょ?」
「んー・・・でもいいんです。あ、じゃあ、一年半分くらい切って下さい」
「一年半分?」
「人間って平均一ヶ月1センチ伸びるって聞いたのでー・・・・・・えと、20センチくらい?」
「それはそうだけど・・・ほんとにいいの?」
「いいんですっ。もう決めちゃいましたから」
「じゃあ・・・」
カシャン。
さんごさんがわたしの髪にはさみを入れ始める。
そう、もう決めたの。
ここでの自分を頑張ろうって。
そして、また伸びたら、もとのわたしに戻れるから。
本当のわたしに戻れるから。
「・・・失恋でもしたの?」
「失恋させたの方が正しいのかも知れないですけど・・・」
「ま。その子のこと好きじゃなかったの?」
「好きだったんですけど・・・海に帰りたいから」
「ふうん・・・色んな理由がありそうね。でも、
まぁ、歌音ちゃんが決めたんならいいと思うわ。じゃあ、この髪は決意表明?」
「んー・・・それもありますが・・・違う自分でいたいんです」
「?」
「ここでは水城歌音でいたいんです。この髪が一年半経って、
またもとの長さになったら、わたしは本来の歌音に戻れるんです」
「なるほどねー・・・。まぁ、今の歌音ちゃんから20センチ髪を切ったところで、
ロングヘアーに変わりはないけどね」
「そうですね〜。でもやっぱり違うと思うんです」
「そうね。一年半、か・・・。頑張って」
「はいっ」
綺麗に切って、軽く仕上げてくれたさんごさん。
海の世界にいたころから比べると、とてもとても短くなった髪。
それが、わたしがココにいるという自分自身への証。
風が髪をさらう世界だから・・・。
そして、これは自分への誓い。
必ず海の世界へと戻るという誓い。
この髪がもとの長さになったら、わたしは人魚の姿へと戻るの。
海の水が髪をなびかせる世界へ・・・。
登校日。
いつものように真珠と登校した。
いつも通りに振る舞うこと。
それが、わたしができること。
「おっはよ!歌音ちゃん」
「つばきちゃん!おはようー」
「わあっ、髪切っちゃったの?」
「えへへ。ちょっとだけね」
「でもだいぶ印象違うね。可愛いっ」
「ありがとう」
「あ、そうだ。あのねー、今日の部活中止になっちゃったのよ。
ま、どうせ活動時間ほんのちょっとしかない日だけど」
「え?こんなに突然に?」
「先生が出張なんだって。顧問がいなきゃ出来ないからね」
「そうね・・・ありがとう、教えてくれて」
「いえいえー。あたし、他のクラスにも知らせてくるね」
「うん」
そっか・・・部活無しなんだ・・・久しぶりの再開だったのに。
また歌えると思って楽しみだったのにな・・・。
「おはよ、真珠、歌音」
「あ、おっはよ、透也」
背後から声をかけられて一瞬こわばる。
ダメよ、歌音。
そんなことじゃ王女としてやっていけないわ。
“いつも笑顔を絶やさないこと。どんなにツライ出来事があっても、
人前に出るときは笑顔でいることが基本よ。裏に戻ってきたら泣いてもいいから。
私たちはみんなに見られているのだから、ちゃんと笑ってあげないとね”
そう、母様が言っていた。
ほら、笑って過ごさなきゃ・・・。
「おはよう、透也君」
くるりと振り返って挨拶した。
そんなわたしと透也君を見て、真珠がくすりと微笑んで席を立った。
ふたりで話なよって・・・気を遣ってくれたんだね。
「・・・よかった」
「え?」
「普通に接してもらえて、よかった」
「・・・わたしたち、親友、でしょう?」
「そうだな。うん。あれ?髪、切ったのか?」
「ええ。あまり変わりないかも知れないけど・・・」
「・・・・・・」
「わたし自身への誓いのシルシなの」
「え?」
「ふふっ。気にしないで。誰のせいでもないから」
「あ、そう・・・。ところで、合唱部放課後ないんだって?」
「ええ。急遽中止だそうよ」
「じゃあ、おれたちと遊ばない?歌音」
ひょこっと透也君の後ろから顔を出したのは連斗君だった。
い、いったいどこから聞いて・・・!
「おはよう、歌音、透也」
「おはよう、連斗君」
「髪、似合うね歌音」
「ありがとう」
「・・・はよ。ったく、背後からびっくりするじゃねーか・・・」
「ごめんごめん。いい話してたからさ」
「えと、遊ぶって?」
「そのまんまだよ。音楽室が空いてるんだから、ちょっと遊ぼうよ」
「俺はいいけど・・・」
「・・・ふたりの演奏が聴けるなら、行ってもいいわ」
「よし!決定な!放課後、音楽室に集合」
「はいっ」
またふたりの曲が聴ける。
それだけで、何だか嬉しくなる。
・・・もしかして、連斗君も知ってるのかな・・・わたしたちのこと。
気を遣ってくれたの・・・?
・・・ううん、そんなことどっちだっていい。
そのままに接してくれること、笑ってくれること、それだけで充分。
近い未来に、一緒にいることは出来なくなる。
それまでの間・・・ここにいる間は・・・みんなと楽しく過ごしていたい・・・。
「さてと。歌音、例の曲、練習してある?」
放課後の音楽室。
軽く食事を取ってから集合した。
そして、連斗君が切り出したひとこと。
“例の曲”?
「えーと・・・?」
「あれだよ、夏休み前に3人でやろうって渡しただろ?」
「俺も渡したけどー?」
「え、あ、あれねっ。大丈夫よ、やってあるわ」
「よしよし。じゃあ、まずは一曲、指慣らししようか、透也」
「了解。何やる?」
「そうだなー・・・ヴィヴァルディの『春』なんてどう?」
「なるほど。真夏に春なんてちょっと季節はずれだけど・・・OK」
ついっと慣れたように連斗君がピアノの前に立つ。
透也君もたくさんある楽譜の中からさっと譜面を探し出して譜面台に置いた。
チューニングをしてから、一呼吸で音楽を始める。
このふたりは、本当に素敵・・・。
ヴィヴァルディ作曲 『四季より 春 第一楽章』
人間界ではよく聞く曲のひとつね。
明るくて、軽快で、小鳥がさえずるような音楽。
初めて見た桜を思い出す。 とても綺麗で、ふわふわしたような、
きらきらしたような気持ちになった。
弦楽で演奏されるけれど、ピアノとヴァイオリンのアレンジも素敵ね。
「さてと・・・次は歌音も一緒だな」
一通り弾き終わって、あーだこーだと色々と意見を交わしたあと、
わたしの方を見て連斗君が言った。
「はーいっ」
とんっと立ち上がる。
「その前に発声がてら一曲いく?」
「いいの?透也君弾きっぱなしになっちゃうよ?」
「そのくらいお安いご用」
「おれも歌音の歌なら大歓迎。お待ちしますよ」
「じゃあ・・・授業でやったのにするわ。ドナウディの・・・」
「Vaghissima sembianza(かぎりなく優雅な絵姿)か。OK」
バサバサと透也君が楽譜の山から楽譜を取り出す。
その間にわたしと連斗君が場所を交代した。
「よし。原調でいい?授業のとは違うけど・・・これしかなくて」
「大丈夫よ。部活でやったから」
「じゃあ、よろしく」
すっと一呼吸置いて前奏を弾き始めた。
音楽の授業で試験としてやったのよね、この歌。
とても綺麗で、ドラマチックで、大好きな一曲。
ピアノの伴奏もとても綺麗で、素敵なの。
「さっすが歌音・・・いつ聴いても良い声だなぁ」
「ありがとう、連斗君」
「さてさて、本番にいきましょうかね」
「ったく、透也はせっかちだなー。えーっと、
Pie Jesu(ピエ・イエズ)やろうって言ってたんだよな」
「そう。アンドリュー・ロイドウェバー」
「素敵な曲よね、この歌。CD、聴き惚れちゃった」
「俺も好き、この歌」
「歌音の声なら、なおのこと良くきこえそうだよなー」
「そ、そんなにおだてないでよっ」
「あはは。嘘じゃないって!」
「そうそう。俺もそう思う」
「もーう・・・ふたりしてー・・・」
わたしの声を好きだと言ってくれるのはとても嬉しい。
海の世界でも、わたしの声を、わたしの歌う歌を聴きたいと
言ってくれる人がたくさんいた。 少しむずがゆいけれど、やっぱり嬉しい。
でもでも、面と向かってこうやって何度も言われると恥ずかしくなる。
そんなに良い声じゃないわ・・・。
姉様たちに比べたらまだまだ子供っぽい声・・・。
「歌音?怒った?」
「怒ってないわ。嬉しいけど・・・失敗しても笑わないでよ?」
「もちろん。この世界、失敗しない人はいないしね」
「ほらほら、始めるよ?」
「はい」
3人でやろうと言った曲。
Pie Jesu。
静かで綺麗で、とても澄んだ歌。
天高く響くような、イメージ。
ゆっくりと流れる音楽はとても神聖で・・・荘厳で・・・。
そう、この歌は海の中よりも空の下がよく似合う・・・。
宗教曲だけれど、そんな理屈抜きに素敵だと言う人が多いんだそう。
ピアノの伴奏に、歌。
そしてコーラスなどの部分をアレンジしたヴァイオリン。
3人で作り上げる音楽。
声だけで作る合唱とは違う。
ひとりで歌う、伴奏と歌とも違う。
3人がそろって初めて出来る、違う音のハーモニー。
澄んだピアノの音、なめらかなヴァイオリン、そしてわたしの声。
この世界に来てよかったと・・・本当にそう思った。
「初めてにしてはいいんじゃない?」
「ほんと、歌音の声にもよく合ってるし、連斗のヴァイオリンもいいアレンジ」
「ありがとう。でもちょっと難しいわね、この歌」
「聴くのとやるのじゃ大違いってやつ?」
「よくある、よくある」
でも、とても楽しい。
こうして一緒に音を奏でられることがとても・・・。
その時、ガラッと扉が開いた。
「おじゃましまーす」
「みっ」
「美菜穂っ」
がたっと透也君が立ち上がった。
え?え?
「えへへー、連斗と透也がいるのが見えたから」
ひょこっと音楽室に入ってきた。
この人が・・・美菜穂さん・・・。
さらっとした髪、ふわっと優しい笑顔、かわいい人・・・。
「な、何で美菜穂が学校にいるんだよ・・・」
「職員室まで呼ばれてね。久しぶり、透也」
「お、おう・・・久しぶり。びっくりしたー・・・突然現れるんだもんなー・・・」
「ふふっ。えっと・・・」
くるりと美菜穂さんがわたしの方を向いた。
「初めまして。透也君と連斗君と同じクラスの水城歌音です」
「初めまして、荒川美菜穂です。廊下で聴いてたんだけど、
とっても素敵な歌声だったわ」
「ありがとう」
「えっと、歌音ちゃん、でいいのかな」
「ええ」
「私も同じクラスだから。よろしくね」
「よろしくお願いします」
きゅっと手を握る。
あったかい空気を持った人・・・。 連斗君が好きになるのがわかる気がするわ。
「で?用件はなに?美菜穂」
「連斗が終わったなら一緒に帰ろうと思ったんだけど・・・まだみたいね」
「そうだなー、もうちょっと残ってるから」
「待ってれば?美菜穂。俺は観客が増えたところで構わないし」
「そう?歌音ちゃんはいい?」
「ええ、どうぞ」
「ありがとうっ。楽しみ〜。廊下で聴いてたけど、本当に素敵だったもの!」
「はいはい。ちゃんと座ってて」
「はーい」
カタン。 美菜穂さんが席に着く。
不思議・・・初対面なのに・・・初対面じゃない気分・・・。
「今日は最終下校が早いから、あと一曲ずつしか出来ないな・・・」
「じゃ、連斗は一曲待機な。歌音、やろう」
「はい。モーツァルトのVoi che sapete cosa e amorでいいのよね?」
「そうそう、あってる」
がさがさとコピーした譜面を広げる。
この曲はオペラで歌われる歌の一曲なんだって。
「へぇ、おもしろい選曲をしたね?透也」
「歌音ってどうしても声からしてバラードを歌わせたくなるから、
あえて逆を選んでみた。曲自体おもしろいから好きだし」
「えーと・・・どんな歌だっけ?」
美菜穂さんが首をかしげた。
透也君と連斗君と一緒にいる人なら・・・音楽、少しはできるのかなって思ったけれど・・・
違うのね・・・。
「聴いてればわかるって。絶対どこかで聴いたことがあるやつだから」
「そう・・・。あ、ごめんなさい、気にしないで始めて」
「じゃ、遠慮なく。いい?歌音」
「はいっ」
軽快なテンポで流れる前奏。
明るくて可愛い曲調。
“恋とはどんなものかしら”
わたしもわからなかった。恋なんてどんなものかわからなかった。
この世界では知りたくなかった・・・。
でも、知ってしまった。ひとつの気持ち。
でも・・・大丈夫よ。わたしはわたしの決断に後悔してない。
この曲は、好きという気持ちを知らなかった頃の無邪気な歌なのね・・・。
「うん、いいんじゃない?」
「バラードだけじゃ飽きるしなー。歌音もそう思わない?」
「そうね・・・たまには違う感じの曲も歌いたくなるわね。この歌は明るくて好きよ」
「歌音ちゃんって歌上手いのね〜。素敵っ」
「美菜穂さんは何か・・・」
「さっぱり出来ないのよ。ピアノも歌も、全部ダメ。英語くらいしか取り柄がないの」
「英語と言えば・・・歌音、帰国子女だよ」
「え?」
・・・・・・そうか・・・わたし、そんな設定になってるんだっけ・・・。
帰国子女・・・ってことになってるんだったわ。
英語が出来ないと留学できないのはそのためだったわね。
すっかり忘れていたわ。
「英語もペラペラ?」
「そうそう。先生より上手い」
「そうなんだ〜!じゃあ、歌音ちゃんと仲良くならなくっちゃ。
帰国子女がいるクラスに入れるなんてラッキーだわっ」
「くすくす。こちらこそ」
「さてと。最後に一曲いこうか、連斗」
「OK、透也」
カタンと連斗君が立ち上がった。
わたしが今度は席に着く。
何を聴かせてくれるのかしら・・・。
「歌音」
「あ、はいっ」
「この曲は歌音のために」
その言葉にどくんっと心臓が波打った。
わたしの・・・ために・・・?
そして奏でられる音楽。
パッヘルベルの『カノン』
ヴァイオリンとピアノのコラボレーション。
なめらかに響くヴァイオリンの音に、軽く響くピアノの音。
ゆるやかで明るくて・・・とても・・・綺麗・・・。
泣きたくなるほど、素敵な音楽。
カノン・・・。
「ありがとう・・・ほんとに・・・ありがとう」
「気に入った?」
「とても。素敵だった」
「よかった。歌音にと思って練習してみたんだ」
「ありがとう、連斗君、透也君・・・とても嬉しい・・・」
「今度は歌付のも探してみようか。な、透也」
「そうだなー。なきゃ編曲するしかないけど。そうしたら3人でできるもんな」
「・・・うん」
決して忘れない。
今日のこの演奏を。
ふたりのくれた気持ちを。
この世界を離れても・・・決して・・・。
歌音にくれた、カノンを・・・。
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