「え?帰るの?」
数日後の水城家。
夕食後にわたしから切り出した。
「はい。一日だけ、海に帰ってきてもいいですか?」
「か、構わないけど・・・一日だけ?」
「朝に出て、夜には帰ってきます」
「とんぼ返りね・・・せっかくだからゆっくりしてきたらどう?歌音ちゃん」
「いえ・・・。長くいると・・・ここに戻ってきたくなくなっちゃいそうだから」
「そう・・・」
「んー、帰るなら月曜日が良いかも。休日明けだし人も少ないし」
「朝早くに行って夜、日が沈んでから帰ってくれば問題なさそうだな。
それなら送っていってあげられるし」
「ありがとうございます」
海に行って確かめたいことがあるの。
とてもとても、大切なこと。
どうしても・・・行って確かめたいの・・・。
そして、月曜日の朝早く、真珠のお父様の運転であの海まで連れて行ってもらった。
そう、わたしたちが初めてであった場所。
あそこからまっすぐ下に泳げば、人魚の世界へと行ける・・・
迷わずに行って帰ってこれる・・・。
「じゃあ、歌音。また夜、日が沈んだら迎えに来るね。
もしあたし達の方が遅かったら携帯で連絡して。岩陰にカバンと着替え隠しておくから」
「ありがとう」
「じゃ、行ってらっしゃい。歌音の姉妹たちによろしく」
「ええ」
そろりと水の中へ身体を沈める。
ひやりとする水温。地上の夏は朝も暑いんだってことを実感する。
そして、下へ下へと泳ぎだした。
リリン。
海音姉様の部屋のベルを鳴らす。
「はーい、どうぞ」
「失礼します」
「えっ!その声っ・・・」
すっと海音姉様の部屋に入る。
懐かしい姉様・・・。
「歌音っ・・・」
「お久しぶりです、海音姉様」
「なんで・・・」
「今日だけちょっと戻ってきたんです。夜には帰りますわ」
「あ、ああ、驚いた・・・でも、お帰りなさい」
「・・・ただいま・・・」
ぎゅっと姉様がわたしを抱きしめる。
大好きな海音姉様だ・・・!
懐かしさに胸がいっぱいになる。
まだ、たったの数ヶ月なのに・・・なんだかすごくすごく離れていた気分・・・。
「姉様、海音姉様、いらっしゃる?」
そう言って入ってきたのは紫音姉様。
「みお・・・・・・歌音ー!?」
わたしを見て紫音姉様が叫んだ。
「お久しぶりです、紫音姉様」
「ちょ、ちょ、なんで歌音がいるんですかっ」
「私も驚いたところよ。今日だけ戻ってきたんだそうよ」
「連絡くらいしなさいよー歌音ってばっ」
今度は紫音姉様がわたしを抱きしめる。
「もーこの子ったら!びっくりしたわっ」
「すみません。驚かせるつもりはなかったんですが・・・」
「今日だけってことはすぐに戻るの?」
「ええ、夜、日が沈んだら・・・」
「残念。でも良い日に帰ってきたわね」
「?」
良い日? 今日は何の日なのかしら・・・?
「海音姉様ーっ、今日の歌会の衣装・・・・・・って歌音ー!?」
波音姉様が海音姉様の部屋に入ってきて、やっぱりわたしを見て声を上げた。
歌会・・・今日は歌会の日だったのね!
「歌音っ!歌音よねっ!?偽物じゃないわよねっ」
「あ、はい。お久しぶりです、波音姉様・・・」
「やだもー、グッドタイミングで帰ってくるんだからーっ」
「今日は歌会の日なんですか?」
「そうよ、歌音。ほんとに良いタイミングね」
「姉様方の歌が聴けるなんて・・・!本当ですね」
姉様達の歌が聴ける。
一日だけ帰ってきただけなのに、そんな素敵な日だったなんて!
「あ、これが真珠ね?」
波音姉様がわたしの胸元にかかっている真珠を見ていった。
「はい。この真珠と、指輪がないと人間の姿になれないんです」
「へぇ・・・こんなもので人間の姿になれるんだから、ある意味お手軽よね」
「でもどちらかが欠けたらダメなんでしょう?」
「ええ。外したら戻ってしまいますから」
「そっかぁ。それも大変ね」
「どう?人間界は」
「楽しいです。思っていたよりもずっとずっと、人間は素敵な生き物でした」
「えーっ。信じられない!」
「魚を食べるのは仕方がないけど、
争いを海でするっていうのは納得いかないのよねーっ。
船沈めたり、いらないもの投げ入れたりっ。迷惑だわ!」
「そ、それはわたしのレベルじゃどうしようもないですが・・・。
水族館だけはちょっと見方が変わりましたわ」
「あら、あの魚を箱に閉じこめて人間に見せびらかす娯楽施設の事ね」
「あ、あはは…確かにそうですけど・・・。
水族館って、人間に海を知ってもらう施設なんです」
「知ってもらう?」
紫音姉様と波音姉様が顔を見合わせた。
とても理解できないという顔をしている。
「人間は海の中で息が出来ません。
海の中を知ることが出来るのはごく一部の限られた人だけなんだそうです。
だから、海を再現して、海の生き物を人間に見てもらうことで、海にも生き物がいて、
素敵な世界なんだと知ってもらうための施設なんです」
「・・・なるほどね」
「それに、水族館には海出身の魚よりも
圧倒的に水族館で生まれて育った魚の方が多いんです。
だから、苦だと思わないそうで・・・。
それに素敵な人魚のおかげでとても幸せな水族館があるんですよ」
「ふうん・・・ま、歌音が言うんだからそうなんでしょうね・・・」
「まぁ、それはそれでいいのかもしれないわね・・・」
「歌音、父様と母様にはもうお会いして?」
「いえ、まだ・・・。姉様のお部屋の方が近かったので」
「では、行ってきなさい。父様たちも歌音を心配していたから」
「はいっ」
「歌会の会場にいるわ。待ってるわね」
「わかりました」
その後、父様と母様にお会いして人間界の話をした。
数十年に一度しか機会が設けられていない“人間界留学”。
人間界に行ったまま、戻ってこないケースもまれじゃない。
だからこそ、人間界に対する新しい知識が必要とされているのも事実。
懐かしい海をぐるりと巡った。
身体が自由な感覚。 水の中を軽やかに進んでいく感覚。
水の流れになびく髪。 ふわりと軽い身体。
ずいぶんと長いこと忘れていたような気がする。
プールや湖みたいな閉鎖的な空間じゃない。
この広い広い海で自由になる感覚を・・・。
懐かしい友人を見かけた。
ちらっと、遠くから。
沙羅や湊にも会いたかったけれど・・・。
今、ひょこひょこと顔を出すわけにはいかないわね。
今日はやることがあるんだから・・・。
でも、また今度、ちゃんと話したい。
そして、歌会の会場へと向かった。
姉様達の歌を客席から聴くことが出来るなんて思わなかった。
歌会を始めたときから、わたしは舞台の方にいたから。
お客さんになった気分でドキドキワクワクする。
客席と言っても囲われた父様と同じ席だったけれど・・・それでもわたしには新しい。
わたしのいない歌会。
以前はわたしのいた場所。
それはなんだか不思議な感覚だった。
姉様と萌音・愛音のいる舞台が別世界な気がした。
確かに、前はわたしもいたはずの場所なのに、とてもとても遠い場所なような・・・。
「最後に、とても素敵なゲストをお招きしたいと思います」
歌会の曲目も最後になったころ、海音姉様が突然言った。
会場がざわつく。
「歌音、いらっしゃい」
すっと手を差し出して、まっすぐにわたしのことを見つめて姉様が言った。
わたし…?
「父様・・・」
「行ってきなさい。海音もああ言っているし、私も久しぶりに歌音の歌が聴きたい」
「・・・はいっ」
すいっと泳ぎだして、客席をつっきって舞台へと行く。
海音姉様の手を取った。
一瞬、会場のざわめきが大きくなるのが聞き取れた。
そうよね・・・わたし、今ココにいないはずの者なんだもの・・・。
「姉様・・・」
「せっかく帰ってきたんだもの。一曲歌ってからでも遅くないわ」
「それに、幸運なお客様にも聞かせて差し上げたいしね」
「歌音姉様が来てるって言うから萌音が是非って海音姉様にお願いしたの」
「あーっ、愛音だってお願いしたのにっ」
「萌音、愛音・・・」
「あの歌なら歌えるでしょう?いつものやつ」
「ええ…でも、本当にいいのですか?」
「ここまで出てきたんだもの。歌わないなんてダメよ。それに見て、みんな期待してる」
くるりと客席を見ると、みんながこちらを真剣に見つめていた。
歌って、と。
「・・・ありがとうございます、海音姉様っ」
ぎゅっと姉様に抱きつく。
本当はこの場所に来たかった。
姉様達と歌いたかった。
客席にいたときは、ひとり取り残されたような気分で寂しかったの。
「今日来て下さった幸運なみなさまに、私たち姉妹そろっての歌をお届けします」
海音姉様のその一言で客席がわき上がった。
こんなにも、わたしたちの歌を楽しみにして下さっている方がいるなんて・・・。
ここはなんて素敵なのかしら。
「伴奏の方には行ってきたわ。大丈夫よ」
「ありがとう、波音」
海音姉様が視線で合図を送ると、始まる伴奏。
そして歌い始める。
なつかしいあの歌を。
姉妹そろって、いつも歌う歌を。
歌いながら交わす視線が、微笑みがわたしは大好きなの。
そして本当に思った。
わたしはここが、この世界が大好きだって。
そして、歌会の後は姉様達や萌音・愛音とたくさんの話をした。
人間界のことも、海の世界のことも。
そして、日が暮れて、そろそろ帰らなければという時。
海音姉様が言った。
「で、歌音。あなたの本当の目的は何?」
「え・・・?」
「わかっていてよ?あなたがそんなに軽々しく帰ってくるような子
じゃないってことくらい。懐かしいだけじゃないでしょう?
何か、とても大切な用事があったんじゃないの?」
「っ・・・」
・・・海音姉様にはいつだって勝てない。
幼い頃、わたしの世話をいつもしてくれた海音姉様。
いつだって優しくてそして的確な言葉をくれた海音姉様。
そんな海音姉様が大好き。 そして、いつだって勝てなかった。
何故か、見抜かれてしまう心があるの。
「・・・確かめに来たんです」
「何を?」
「この、世界を」
「この世界って、海?」
「ええ・・・。人間界で、人間の姿で生活していると・・・
時々、この海の世界が夢だったんじゃないかって思えてくるんです。
人魚の私も、人魚の世界も、夢物語のように・・・」
「そんなことないのに」
「ねぇ」
「でも、あの世界ではここは非日常で・・・決して交わることのない世界で・・・」
時々不安だった。
海の世界が非日常なあの世界。
しっかりと感じることが出来ない海の世界。
完全に離れてしまったことが不安だった。
「・・・大丈夫よ。いつだって海はあなたを待ってるわ」
「海音姉様・・・」
「そうよ、歌音。私たちだってあなたのことを待ってるわ」
「ちゃあんと帰ってくる場所を用意してるわ」
「紫音姉様、波音姉様・・・」
「私たちはあなたが大好き。それだけは覚えておいて」
「・・・はいっ・・・」
そう、わたしは今日、この世界を確かめに来たの。
どれだけわたしがこの世界を好きか。
どれだけここに住んでいるみんなが好きか。
わたしは今日、それを確かめに来たの・・・。
よくわかったわ。
わたしがどれだけこの世界を好きで、大切に思っているか。
姉様や父様達が大好きなのか。
失いたくないものがたくさんたくさんあることがわかった。
歌会で姉様や萌音・愛音と歌うのが好き。
姉様達とこうして話すのが好き。
友達と楽しく過ごす時間が好き。
お気に入りのイソギンチャクの丘、ナイショの洞窟、白い砂の広場。
ここには大好きがたくさんある。
失いたくないものが、たくさんたくさんある・・・。
それをわたしは、確かめに来たの・・・。
そして、わたしは再び人魚の世界を後にした。
ざばっと水面に顔を出す。
「おっかえり、歌音」
たった一日だったのに、真珠の姿が妙に懐かしく思えた。
「・・・ただいま、真珠」
「楽しかった?」
「ええ、とっても」
「・・・よかった。元気になった」
「え?」
「歌音、最近元気なかったから。でも、元気になったみたいね」
「・・・真珠・・・うん、ありがとう。心配かけてごめんなさい」
「さあ、帰ろう!上がって上がって!」
「はあい」
悩んでいた日々はおしまい。
わたしはわたしの気持ちを見つけた。
だからもう迷わない。
しっかりとけじめをつけることができる。
そう、けじめをつけなくちゃいけないの・・・。
翌日、透也君にメールを送った。
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