「おはよう、歌音」
「あ、おはよう、連斗君」

朝の音楽室。
ピアノの音が聞こえたからてっきり透也君かと思ったけど・・・。

「連斗君もピアノ弾けるのね」
「ああ、まぁね。いちおー弾けないと困るから」
「?でも連斗君ってヴァイオリンじゃ・・・」
「大抵の人は弾けるもんなんだよ。ピアノってさ。 ヴァイオリンもピアノと組むこと多いから弾けた方が得だし」
「・・・そうなんだ」
「音楽の初歩はピアノからって感じ?あれ?歌音は弾けないんだっけ?」
「ええ」
「へーっ。あんなに歌上手いのに、意外だなぁ」
「そ、そうかな・・・」
「まぁ・・・パッヘルベルのカノンも知らないんじゃ、 そんなに音楽に興味なかったってとこかな?」
「う、歌うたうことしか・・・出来ないから・・・その・・・」

い、言えない・・・よ・・・。
海に住んでいたからピアノの存在も、この世界の音楽も知らないんだもの・・・。
そうか・・・こういうときのためにちょっとは知識を仕入れておかないといけないのね ・・・失敗だわ。
せっかく海輝に楽譜の読み方や音の位置を教えてもらったのに・・・。

「そ、そういえば、透也君は?」
「透也は今日はサッカー部」
「?」
「助っ人だよ。あいつスポーツ万能な音楽人だから。 練習試合でひとり欠員が出たから入ってくれって頼まれたんだと。 打ち合わせだけだって言ってたし、そろそろ戻ってくると思うけどな」
「そうなんだ・・・。すごいのね、透也君」
「芸術家なんだか、スポーツマンなんだか、わかんないよな」
「くすっ。そうね」

芸術をやってる人たちは、 インドア派でスポーツが苦手な人が多いんだって海輝が言ってた。
でも、そうじゃない人たちもやっぱりいるのね。
透也君は運動部の人に負けないくらいスポーツができるのに、ピアノも弾けちゃう。
連斗君だって、進んでやらないだけだって透也君が言ってたから、出来るんだろうな。

「さて。せっかくだし、一曲お聴かせしましょうか?姫君」
「えっ」

“姫君”の言葉にどきっとした。
わ、わたしが人魚だって知らないよね・・・?わたしが姫だって知らないよね・・・?
連斗君って・・・違うよね・・・?

「くすくす。ごめんごめん。“姫君”なんて軽いジョークだよ。 そんなにうろたえないでよ」
「え、あ、え?」
「歌音ってほんと、からかうとおもしろいタイプだよなー」
「え?な・・・」
「おわびに一曲弾くよ。透也ほど上手くないけど」
「んもう・・・連斗君ってば・・・」

ピアノの音が音楽室に響き渡る。
高音のとても綺麗な音楽。素敵・・・。
おだやかで、とてもロマンチックで、なめらかで、キラキラとした光のような音。
そう、きっと、これは夜の音楽・・・。
何でかな・・・連斗君にとてもよく似合っていて・・・とても綺麗だと思える。
曲も、弾いている姿も・・・とても素敵なの。
不思議ね・・・ピアノって・・・。
曲によって、こんなにも音色が違って聞こえるのね・・・。

「素敵!とっても綺麗な曲ねっ」
「そう?ありがとう。この曲知らない?」
「あ、うん・・・」

「ドビュッシー作曲、ベルガマスク組曲第3曲目『月の光』」

ガラッと扉を開けて、透也君が言った。

「透也!」
「透也君」
「よっ。おはよーさん」
「おはよう」
「ったく、いつから聴いてたんだ?」
「中盤から。珍しいな、連斗がピアノを誰かに聴かせるなんて。いつも嫌がるくせに」
「い、いいだろ、別に」

カタンと立ち上がって連斗君が透也君にピアノの前を明け渡した。
あまりにも自然な動作。
お互いに、自分のことを良くわかっていて、相手のことを良くわかっているのね。

「立ち聞きしたんだから、なにか透也も弾いてよ」
「えー。突然すぎだろー」
「いいじゃんか」
「ちぇっ。何がいいんだよ」

ぶつぶつと言いながら、透也君がピアノの前に座った。

「そうだなぁ・・・印象派繋がりだと・・・ラヴェルなんてどう?」
「はぁ!?俺に朝から『水の(たわむ)れ』でも弾けって?」
「あ、いいね!『水の戯れ』。それでいこう」
「印象派っつったって・・・『月の光』とはちょっと趣向が違うんじゃね? ・・・ったく・・・仕方ねーなぁ。歌音とおとなしく聴いてろっ」
「はーい」

ふたりは、とても仲が良い。
あーだこーだ言いつつも、お互いを思ってるのがわかる。
男の子の友達って、海の世界でもそんなにいなくて、湊くらいだったから・・・なんだか新鮮。

すうっと透也君が一息おいて、鍵盤に手を置いた。
そして、紡ぎ出される音楽。連斗君の曲とは違ってポロポロと奏でられる音。
少し不思議な気持ちになる和音。引いては寄せて、 渦巻いて、水がはねて、速さを増してざっと流れていく・・・。


そんな音楽。

『水の戯れ』・・・。