2日かかって、やっときちんと歩けるようになった。
広い家の廊下で練習して、そのあとに庭で靴を履いての歩行訓練。
立つという行為はとても大変。 たくさんの力がかかってるし、不思議な感じ。
でも、一歩一歩を自分で踏み出さなくちゃ前に行けない。泳ぐという行為とは全く違う。
走ることも出来るようになったし、靴にも慣れた。
けれど“スキップ”だけはどうしてもダメ。 あの不思議な手と足の関係に頭がこんがらがってしまう。
人間でも出来ない人がいるんだから、出来なくてもおかしくないって言ってくれたけど・・・。


「さあ、歌音!今日は出かけるわよ!」

朝食の席で真珠がうきうきした声で言った。

「どこに?」
「街よ、街。歌音が歩けるようになったんだから、生活用品買いに行かなくちゃ! 服がなきゃ生活できないしね。みんなが帰ってしまう前にショッピングよ」
「そっかー、明日までの約束だもんねー」
「家帰らなきゃだもんね。よし、買い物行こう!」

みんなが楽しそうに言う。女の子が買い物好きだっていうデータは間違ってはいないのね。
あ、でも・・・。

「あの、でも、お金・・・」
「あら、歌音ちゃん。気にしないで」
「でもでもっ」
「真珠屋さんで言ってたでしょう?“おつりがくる”って。 その“おつり”分を私たちが歌音ちゃんのためにってお金で預かっているから大丈夫よ。おこづかいもあげるし」
「でも、お金ってとっても大切なもので、働かないと頂けないものでっ」

お金の価値は違うけれど、海でも陸でも手に入れる手段は一緒。
そんな大切なものを、海からやってきたわたしがひょいひょいいただくわけにはいかないわ。

「歌音ちゃん、そんなに気にするなら、真珠とバイトしてくれないかい?」

わたしとお母様、真奈さんの間にお父様、俊彦さんが口を挟んだ。

「ばいと?」
「バイトっていうのはアルバイトっていって、 本業以外に空いた時間に出来る仕事をして働くことだよ。もちろん給料もでる」
「わたしに出来ることですか?」
「歌音ちゃんじゃなきゃ出来ない仕事だよ。まぁ、真珠もできるけどね」
「・・・何をするの?真珠」
「簡単よ。閉館後のうちの水族館に行って、みんなと話したり遊んだり、 どこか不備がないかとか聞いて回るの。それだけ。でも、あたしたちにしかできないことだよ」

にっこり笑って真珠が言った。
魚たちと言葉を交わす仕事。 それで・・・いいの・・・?

「やってくれるかい?そうしたら、その分のお給料として小遣いをもらえばいい。 人間界に学びに来たのであればお金は大事だからね」
「食べたいものも食べられないし、欲しいものだって買えないもの。経験が一番でしょ?」
「わかりました。是非やらせてくださいっ」
「ありがとう。じゃ、気兼ねなく今日は買い物に行ってらっしゃいな」
「・・・はいっ」

海の世界では、歌会に出ることがお小遣いをもらう条件だった。
この世界ではバイトがお小遣いをもらう条件ということになるわね。



海輝の運転する車に乗り込んで、女の子だけでお出かけ。
この世界では必要なものがたくさんある。
服がなければいられない。しかも、何着も。いつも同じものを身につけるのはよくないみたい。 靴がなければ外を歩けないし、必要なものは本当にたくさんあった。
わたしは全くの人間界初心者だから、みんながあれやこれや色々と選んでくれた。 洋服屋さんでは着せ替え人形のごとく・・・。

「まずはサイズから決めないとね!」

なんて店員さんからメジャーを借りるとはりきってわたしの全身のサイズを測った。 身長から足のサイズまで。

「歌音・・・あなた一体何を食べて育ったらそんなに細くなるのよ・・・」
「え?」
「ウエスト細すぎ!なのに胸はあるんだから、まるでスーパーモデル体型じゃない。 脚も腕も細いし・・・春樹が軽いって言ってた意味がわかったわ」
「ほんとー。歌音細すぎー。これじゃスカート丈の方が心配だよー」
「羨ましいと言ったら羨ましいけど」
「あの・・・細い?このくらい・・・普通なんだけど・・・」
「細いわよ!身長と釣り合わないっていうか…見た目通りっていうか・・・。 体重計るのが恐ろしいわね。まぁ、仕方がない。このサイズで探すわ」
「あ、はい・・・」

と、みんなで細い細いと言う始末。
人魚の世界では、このくらいの体型なんてごろごろしてるのに・・・。
まぁ、わたしたち姉妹は立場上、太らないように指導されていたけれど・・・。
だって、人前に出るんだもの、やっぱり見てる方に失礼じゃないように綺麗にしないとね。


必要なものを買いそろえて、最後に向かったのはひとつのお店だった。

「ここはね、あたしのお姉ちゃんのいる美容室なの」

真珠が言う。真珠のお姉さん、さんごさんだっけ?

「カットモデル・・・みたいに頼んであるから大丈夫。それに、 今日はお休みの日だからお客さんいないしね。特別に開けてもらったんだー」
「美容室って何をするところ?」
「髪を切ったりアレンジするところ。歌音のその髪じゃ、ちょおっと長すぎるから、整えてもらおう」
「う、うん」

長い長いロングヘアー。今日はきちっと上のほうで結んである。 でないと動き回るのが大変だからってあくあがやってくれたの。
確かに、海の中と違ってちょっと重い。


「さんごちゃーん」
「ん?あ、来た来た!真珠。待ってたわーっ」

真珠を先頭に扉を開けて中に入る。 出迎えてくれたのは、真珠より少し背が高くて、すらっとした女性。

「で、どの子?」
「この子この子」

ぐいっと真珠がわたしの腕を引っ張った。

「かーわいー子っ!初めまして、水野さんごです」
「あ、はじめまして、歌音と申します」
「歌音ちゃんね。ささ、座って。あ、みんなはてきとーに雑誌でもみといてねー」

ぐいぐいとさんごさんに押されて鏡の前に置かれているイスに座らされた。

「ふむ。長いわね。ほどいていい?」
「あ、はい」

しゅるっとリボンがほどかれると、髪が自由になった。

「んー・・・・・・立ってみて」
「はい」

言われたとおりに立つ。 な、なにをするのかしら・・・?
「長いわね・・・重いでしょ、これじゃ」
「あ、はい・・・。でも長いの好きなんです」
「そう。じゃぁ、ロングのままにしましょう。綺麗な髪だしね。 膝下まであるけどー・・・腰過ぎくらいまで切って良いかな?また髪は伸びるし」

そういってさんごさんがわたしの髪をきゅっと手で結んで示した。

「・・・そうですね。せっかくですし・・・挑戦しなくちゃですよね。けじめもつきそう」
「ふふ。留学記念?ま、切っても伸びるから大丈夫よ。じゃ、ここね」

さっきほどいたリボンできゅっと結わえて記しにしたみたい。 結構切ってしまうのね・・・少し寂しいわ。
でも、これで海の世界じゃなく、人間界に来たんだってけじめがつきそう。
失恋した女の子が髪を切るっていうのを聞いたけれど、その気持ちが少しわかった気がするわ。

「あとは軽くなるようにするから大丈夫よ。さ、座って座ってー」
「お願いします」

ぽすんっとまた腰掛ける。
チョキチョキとはさみの音がして、だんだん頭が軽くなっていった。

「歌音ちゃんって人魚なんでしょ?」
「はい」
「純人魚だよね。真珠から聞いたんだ。もっとも私は人魚じゃないんだけど」
「姉妹でも違うんですね」
「そうなの。私はぜーんぜん、普通の人間なのよー」
「人間界ですから、それが通常なのでは?」
「それもそうだけどね。ねぇ、海の中ってどんな感じ?」
「とても・・・広いです。みなさんが思っているより華やかな世界ですよ。・・・人間界には劣りますけど」
「あはは!でも、ココは華やかというよりは騒がしいでしょ。 せっかく人間界に来たんだもの。いっぱい体験していってね」
「はい」
「よし、でーきたっと!」

さんごさんが得意げに言った。 その言葉につられて、みんなもぞろぞろとやってくる。

「立って立って!立たないとわからないから」
「は、はい」

とても長かった髪は腰を過ぎたくらいになっていて、とても軽くなった。

「専門用語言ってもわからないと思うけど、シャギーいれて軽くしておいたわ。 人間界じゃ、これでも超ロングヘアーだけど、大丈夫でしょう」
「ありがとうございます」
「いえいえ。いつでもどーぞっ」

ふと、鏡に映った自分の姿を見た。
脚があって、服を着ていて、靴を履いている。
一瞬、自分じゃないかと思った。どこから見ても、人間なんだもの。
不思議な気分。
洋服屋さんでは着替える行為で精一杯で鏡なんてそんなに見てなかったから・・・。

「歌音?」
「え、あ、ごめんなさい、ぼーっとして」
「何か映ってた?」
「・・・いえ、何でもないの。気にしないで」
「そう?じゃぁ、帰りましょ」
「あの、代金は・・・」
「いいのいいの、カットモデルってやつよ」
「かっともでる?」
「うーん…簡単に言えば練習のための人。私は美容師だからね」
「んー・・・難しいですね・・・えと・・・」
「練習させてもらうかわりに、やられたほうは代金タダっていう仕組みよ」
「なるほど!」
「さ、帰りなさい。きっとお母さんたち待ってるわよ」
「はい。さんごさん、ありがとうございました」

さんごさんに見送られて店を出た。
吹く風に髪がさらわれる。髪って重みがあるとはあまり意識しなかったけれど・・・確かに軽くなったわね。


その日の晩は人間界で必要なデータを準備すると言って一枚の紙を海輝が取り出した。
わたしが、この世界で暮らしていくために必要な基礎なんだって。
それがいったい何なのかわからないけれど・・・。

「さー、歌音についての事項をまとめるわよー」

ペンを取り出して海輝が言った。

「何をするの?海輝。歌音についての事項って?」
「あら、あくあったら、これくらい基礎よ基礎。みーんな当たり前過ぎて気がつかなかった?」
「?」

海輝の言葉にあくあと雫と真珠が顔を見合わせた。

「プロフィールよ、プロフィール」
「ああ、なるほど!そっかぁ。決めないといけないもんね」
「忘れてた。あたりまえのことだものね」
「歌音は海育ちだから、決めないといけないんだねー」
「ぷろふぃーるって何?」
「個人データ。んー・・・自己紹介に必要なデータみたいなものね。生い立ちとか誕生日とか名前とか・・・色々あるけど・・・」
「なるほど・・・」

個人データ・・・。履歴書ってものかしら。
海の中でも誕生日とかはあるけど…名字はないし、学校はほぼみんな同じ所の出身。
そうすると自然と名前だけでよくなってしまうんですものね。

「まずは名前!海の世界でも名字ってあるの?」
「いいえ、ないわ。歌音だけ」
「じゃあ、水城歌音でいいわね。この家に住むのなら親戚ってことにしたほうが通じやすいし・・・」
「そうね。外国とか行ってたことにすれば、ここの常識が多少欠けてても大丈夫だろうし」
「あ、でもそうすると・・・語学についてつっこまれない?」
「あの・・・わたし、英語ならできますけど?」
「・・・・・・人魚の世界は英語なの?」
「いえ、人間界留学の条件なんです。英語を出来るようにすることが」
「へぇ・・・考えられてるんだなぁ。これで外国育ち説がフォローできるもんね」

人間界留学のための条件のひとつ。
それが英語という人間界の言語を身につけること。
てっきり会話するのに必要なものだとばかり思っていたけれど…こういう理由だったのね。

「じゃ、水城歌音、帰国子女が決定ね。誕生日は・・・西暦は真珠達と一緒でしょ。歌音、誕生日っていつ?」
「え、あ、あの・・・人間界の暦はわからないんですけど・・・」
「海ではいつなの?」
「7月です。7月20日」
「じゃ、それ、そのまま使おう。7月20日生まれね。 血液型は今度ちゃんとやったほうがいいっと・・・。んー、とりあえず、 名前と育ちと誕生日とがわかれば学校生活に支障はないでしょう」
「水城・・・歌音・・・。なんだかくすぐったい」
「慣れてね」
「はい」

水城歌音。
これが、人間界で暮らすわたしの名前。
これから留学期間の間、使っていく名前。

水城歌音、7月20日生まれ。