そして、出発の日。

持ち物は“人魚の涙”一袋だけ。
父様や母様もわたしを送るために来てくれた。
この場所からまっすぐに海面に向かえば、わたしのことを待っていてくれる人がいるんだそうだ。
どんな人たちが待っているんだろう。海の上の世界はどんな顔をしているんだろう。

「歌音、ちゃんと荷物は持った?」
「もちろん、持ちましたわ、波音姉様」
「人間界の方たちにご迷惑にならないようにね」
「はい、母様」
「しっかり勉強して帰ってきなさい」
「はい、父様」
「姉様、たまには帰ってきていいよっ」
「姉様に次に会うときにはもっとお歌上手くなるように練習しておくねっ」
「ありがとう、萌音、愛音。気が向いたら帰ってくるわ」
「たまには連絡ちょうだいね、歌音」
「・・・はい、海音姉様」
「おみやげ、期待してるわ♪」
「もう、紫音姉様ったら・・・」

くすくすと笑いあう。

「絶対帰ってきてね!」
「約束よ、姉様!」
「もちろん、帰ってくるわ、萌音、愛音」
「あーら、わからないわよ。帰ってこない人魚だってたくさんいるじゃない」
「・・・そうですけど・・・。でも、きっと帰ってきます。 ここにはわたしの大好きなものがたくさんあるんですもの!」
「・・・そう。さ、きっと海の上の世界の人たちが歌音のことを待ってるわ」
「別れがたいけど・・・いってらっしゃい」

「・・・いってきます。また、お会いする日までお元気で」

そういって、くるりと背を向けて上へ上へと泳ぎ出す。
だって、これ以上みんなといたら泣いてしまいそうだったの。
人間界で学ぶことは多いと思う。楽しいこともつらいこともたくさんあると思う。
心配も不安もたくさんある。そんな未知の世界に行かなければならない。
大好きな家族と友達がいる海をあとにするのはつらい・・・でも、涙は見せちゃいけない。
これはわたしが選んだ道だから。
永遠の別れじゃないのだから。



キラキラとした水面が近づいてきて、鼓動も早まった。
もう、だいぶ泳いできた。海の上のほうが近くなる距離まで来てしまった。
これから触れる世界は何もかもが、わたしの知らない世界。
その期待と不安がざわざわと心をかけめぐるの。


「ぷわっ」

ざばっと水面にでた。
すごい、何とも言えない圧迫感。
水のない世界は息苦ささえ感じる。
ぱっと前を見ると、話し声が聞こえた。きっと、あの人たちね。
再び潜って、岩場の岩が見えたところで水面をつきやぶった。

「・・・・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・・・・」

そこにいたのは女の子が4人に男の子がひとり。
なんだか状況が把握できなくてきょろきょろと見回す。

「えーと・・・人魚さん、だよね?」
「あ、はいっ」

言葉を選び出しながら、短い髪の子が言った。

「人間界へようこそ。えと、お名前は?」
「歌音です。歌に音と書いて歌音です。どうぞよろしくお願いいたします」

ぺこりと礼をする。礼儀は払わないとね。

「こちらこそ。私たちのこと、きいてるかな」
「いえ・・・」

海の上でわたしを待っててくれる人がいること以外はなにも・・・。
しかも、わたしと同世代に見える子たちがこんなに待っていることも知らなかったわ。

「あたし、水城真珠(みずきしんじゅ)。 あなたの留学先の家の子よ。あなたを迎えに来たの」
「私は水沢雫(みずさわしずく)よ」
「わたし、新谷(しんたに)あくあ」
立光海輝(たちこうみき)です。 まぁ、みんなのことは徐々に覚えていってね」

・・・といっても、人魚は記憶力にすぐれている。
とくに、わたしは計算は苦手だけど、暗記は得意。
ぱっと顔と名前を一致させる。 全員バラバラの名前ということは姉弟ではないわね・・・。

「えと・・・みなさんどのような関係で?」
「・・・簡単に言うとみんな人魚の血をひいてるの。 それで友達。あなたに色々教えられるようにって集まったのよ。あ、私たちのことは呼び捨てでいいから」
「あ、はい・・・」
「さて、さっそく行こうか」
「行くってどこに、ですか?わたし・・・」
「春樹、お願い」
「はいはい」

無口にずうっと後ろの方にいた男の子がすっと出てきた。
春樹っていうんだ・・・。

「オレ、渡辺春樹(わたなべはるき)。 よろしく。えーと、とりあえず、ここまで上がってこれる?」
「あ、はい」

とんとんっと陸を春樹が叩いた。
とんっと手をついて、ざばっと上に上がる。
わ、わ、わ、水から出ちゃったっっ。どうしようっ。

「ありがとう。真珠、タオルちょうだい」
「はーい」

春樹が真珠に言って、真珠が持っていたタオルを取り出した。
タオルって・・・確か水を吸い取る布・・・とかだよね?
ばさっと春樹がわたしにタオルをかける。
そっか・・・わたし、濡れてるものね。
それにしても、かさかさしてて、ふわふわで、なんだかとってもくすぐったい。

「ふふっ。これ、おもしろいですね」
「・・・そう?バスタオルでおもしろいなんて聞いたの初めてだ」
「ひゃあっ・・・」

軽く春樹が笑いながら、わたしのことを抱き上げた。
わ、わ、わ、しっぽがっ・・・。
水に少しも触れていないことなんて初めてで、空気だけの世界は少し息苦しくておどおどしてしまう。 心臓がバクバクと波打つ。ど、ど、どうしようっ。気持ち悪くなりそうなくらい、ドキドキしてる。
きっと、こんなわたしを見たら海音姉様が落ち着きなさいって言うだろうなぁ・・・。

「・・・軽い」

ぽそっと春樹が言った。軽い・・・?わたしが?

「人魚ってこんな軽くていいのか・・・?」
「え、あの・・・軽い、ですか?」
「まぁ、重いよりはいっか・・・。さ、早く車に戻ろう」
「くるま・・・?」

くるま・・・くるま・・・って何かしら。
人間界で必要な名詞は覚えてきたハズなのに・・・。
思い出せないわ。
そして、歩き出す。その振動がすこし不安定で不思議だった。
見える景色すべてが新鮮。
海をこうして上から見る日がくるなんて思ってもいなかった。
海の上にあると言われる空を見る日がくるとは思わなかった。

ざざん・・・ざざん・・・。

波が奏でる音。
あんなに静かな海なのに、地上から聞いた海は不規則なリズムで音を奏でている。
空にキラキラ輝く星という存在を、輝く月という存在をこの目で見れるとは思わなかった。
海の世界にはない綺麗なもの、ひとつ、見つけたわ・・・。

「・・・空って・・・綺麗なんですね」
「そっか・・・歌音は空も初めてだよね」
「はい」
「初めての世界って・・・すごく・・・不思議な感じ?」
「はい。でも、ちょっと楽しみです」

きょろきょろとあたりを見回すわたしを冷静に見てくれるのは、 あなたたちも人魚だからなのね、きっと。
わたしがどんな世界にいたかを想像できるからね・・・。


「お、来た来た」

自動車が2台止めてあって、そこにふたりの人がいた。ご両親・・・?

「まぁ、可愛い子っ」
「初めまして、歌音と申します」
「初めまして。真珠の両親です。あなたの留学先の家の者よ。さ、乗って乗って!」

真珠と春樹の間にはさまれて、自動車に乗り込んだ。

「・・・車って自動車のことだったんですね」
「そう。酔わなければいいけど・・・」

不思議。こんなモノが動くだなんて。どんな風に動いているんだろう。
乗り物だとは聞いていたけれど・・・誰もこの自動車を引いたり押したりしていないのに動くのね。
人間ってすごいわ。