コンコンと軽く扉をノックして、さくらはそっと扉を開けた。好都合なことに、廊下には誰1人いない。
“立ち入り禁止”がこの部屋なので、誰かいたら止められるのだから。
昨晩と何も変わりのない部屋。レースのカーテンが日の光を浴びていた。

―― 小狼様・・・まだお休み中だったのかな・・・

小狼の姿が見えないので、さくらはそっと寝室へ続く扉へ視線を向けた。

―― お邪魔しちゃいけないよね。ちょっと、お片付けしておこう。 紅茶冷めちゃうけど・・・また淹れればいいんだもんっ

そう思い、さくらは一応ティーセットのトレイをテーブルへセットすると、空気を入れ換えるために窓を開けた。 朝の空気は、露のせいもあり、少し湿っている。
日の光、少し冷たい空気、なびくカーテンも全て綺麗に感じられた。


ガチャ・・・。

扉の開く音がして、さくらが振り返る。そこには案の定、小狼がいた。着替えを済ませている。

「さくら・・・」
「おはようございます、小狼様」

つかつかとさくらの元に歩み寄ると、ぎゅっと小狼が抱きしめた。

「しゃしゃ、しゃ、小狼様っ!?」

突然のその行為に、さくらが真っ赤になって声を上げた。夜は暗かったからよかったものの、朝は明るいため、妙に恥ずかしくなる。

「・・・よかった・・・」
「え?」
「笑ってるな」
「・・・・・・」

小狼はほっと胸をなで下ろし、さくらを離した。

「あ、えと、その、紅茶をお持ちしたんです!」
「ああ、いただく」
「今日入ったばかりのオータムナルのダージリンです。少し濃く淹れてありますので、ミルクティーでどうぞ」

ささっとさくらがミルクティーを準備した。ソファに座り、紅茶に口をつける。

「うまい。やっぱり、さくらの淹れたやつがいいな」
「ありがとうございます」

話題を少しそらせたことに、さくらがほっと小さく息をついた。

「小狼様、朝食は・・・」
「もう済ませた」
「え」
「実は、結構前に起きているんだ。おまえに時間を指定しなかったから、待っていた」
「そ、そうだったんですか・・・!」

朝食をすでに済ませたという小狼にさくらが驚いた。
時刻はまだ6時を回ったところ。ということは、5時台に食べていることになる。

「おまえに・・・話すと約束をしたからな・・・。早めにしたんだ」
「・・・はい」
「さくら、かけろ」
「え、え?」
「ったく・・・」

ぐいっと小狼は立っているさくらの腕をつかんで、自らの隣に座らせた。

「そそそ、そんな!いいです、わたし、立ってます!」
「いいから、黙って座れ」
「・・・・・・はい」

小狼の隣にいるだけで、さくらは胸を高鳴らせた。隣に座るなんて、初めてのことだった。

「・・・何から話せばいいか・・・正直困った」
「・・・・・・」
「李家の事は知っているな」
「はい」
「李家が、魔術を使える一族だということも」
「・・・多少は、存じております」
「李家の魔力は、月の力を源にしている」
「月・・・」
「ゆえに、月の満ち欠けに左右されるんだ。満月の時は魔力が増幅し、新月の時には魔力が衰える」
「それって・・・!」
「力の弱い者や、母上のように修行を積んだものには関係ない。 自らでコントロールしているからだ。おれは・・・まだ、コントロールしきれない」
「えっと・・・?」
「つまり、この紅茶が魔力だとして・・・」

小狼がカップを指さした。

「新月の時は紅茶が空の状態、満月の時は溢れている状態だ」
「・・・・・・」
「おれはまだ・・・修行も訓練も足りなくて・・・力をコントロール出来ない。おまえたちに、何をするかわからない。だから」
「期間を設けてらしたんですね・・・」
「ああ。昼間はさほど心配ない。だから、安心しろ」

その言葉に、さくらがハッとした。そうだ、まだ立ち入り禁止期間内。
怖がっているわけでも何でもなかったが、小狼は明らかに気にして、気遣ってくれていた。

「昨夜のこと・・・覚えているか」
「・・・はい」
「すまなかった。あんな所を見せて・・・その・・・」
「昨夜も言いました。さくらは何も気にしていません」
「・・・・・・あれは、おれの、望みだったんだ」
「え」

ギシッとソファが鳴って、小狼が立ち上がった。
コツコツと自分の机まで歩いていく。

「昨日言ったこと・・・したことに、嘘はない」

そう、ゆっくりと言った小狼の背中を、さくらはじっと見つめた。

「まさかおまえが現れるとは思ってなかった・・・だから・・・抑制がきかなかった・・・」
「・・・・・・」
「おまえが・・・欲しかった」
「小狼様・・・」
「ほんと・・・情けないな・・・」

見るに堪えかねたさくらが立ち上がり、小狼の横に立つ。さくらに気がついた小狼が、さくらと向き合った。

「昨日・・・おっしゃったことに、嘘はないとおっしゃいましたね」
「ああ」
「・・・小狼様は、さくらのことを好きだと言って下さいました」
「・・・・・・そうだ」
「わたしも・・・昨日言ったことに嘘はひとつもありません」
「さくら・・・」

さくらがにっこりと笑みを浮かべる。

「新月の時も、満月の時も、小狼様は小狼様でした。さくらは小狼様が好きです。だから、もう、気になさらないで下さい」
「さくら・・・!」

衝動的に小狼がさくらを抱きすくめる。さくらはまるで母親のように優しく腕を小狼の背中に回した。

「今日・・・おまえに会うのが怖かった」
「どうしてですか?」
「おれのことを怖がって来ないのじゃないかと・・・もう、笑ってくれないかと・・・」
「そんなことはございません。決して」

―― いつも強く見えるけど・・・小狼様にだって弱い部分はある・・・。 わたしが、支えてあげられたらいいのに・・・こうやって、側で・・・

「さくら」
「はい」

そっと、距離を置く。昨夜のように、金色を帯びた瞳はない。いつもより少し明るい琥珀色だ。

「ちゃんと言ってなかったな・・・」
「え?」
「おまえが好きだ」
「・・・ありがとうございます」

そっと、小狼がさくらの頬に触れる。

「わたしも、小狼様が大好きです」
「・・・よかった」

そして、甘いくちづけを交わす。
昨夜のようなくちづけではない。恋人同士の、優しいキス。

「小狼様、お願いがあるんです」
「な、んだ」
「新月の時も満月の時も、お側にいさせて下さい」
「っ・・・そ、れは・・・さっきも言ったが・・・」
「もう新月の夜にも満月の夜にもお会いしました。小狼様ひとりなんて、寂しいです・・・。わたしじゃダメですか?」
「・・・そんなこと・・・。仕方ない・・・さくらだけ、許可しよう」
「はい・・・」
「まったく、おまえには負けるよ・・・」
「小狼様の、ことですから」
「何かあっても知らないからな」
「はい」

くすくすと小さな笑い声をもらしながらさくらが言った。
照れている小狼を見るのは初めてで、そんな小狼が可愛いと思ったからだ。

「・・・さくら」
「何でしょうか」
「おれたち・・・今から恋人同士だって気づいてるか?」
「!」
「・・・・・・やっぱり」
「え、あの・・・」
「今のおれには何の力もなくて・・・おまえにメイドをやめろとは言えない」
「わかっています」
「この屋敷にいる限り、おれとおまえの関係は変わってはいけないんだ・・・」
「はい」
「いつか・・・」
「?」
「いつか、おれがちゃんと母上に認められるようになったら・・・その時は・・・」
「その、時は・・・?」
「おまえをおれのものにする」
「っ・・・」

小狼が真っ直ぐにさくらを見て、真剣な表情で言うので、思わずさくらの頬が高揚する。
小狼がさくらを自分のものにする、という意味は、遠回しだがプロポーズの言葉なのだ。

「しゃ、小狼様・・・っ」
「意味、わかってるか?」
「た、ぶん・・・」
「本当に?」
「・・・・・・じゃあ、教えて下さい」
「・・・その時は、結婚しようってことだ」

その言葉にさくらが言葉をつまらせる。まさか、小狼が言ってくれるとは思ってもいなかった言葉だ。

「でも、わたし、メイドですしっ」
「辞めればいいじゃないか」
「お、奥様が認めて下さるわけ」
「説得するさ」
「李家の跡取りですのにっ」
「じゃあ、おまえはおれが他に妻を迎えてもいいと?」
「・・・・・・嫌です」
「じゃあ、返事はYESだな」
「・・・・・・さくらで、よろしいのなら・・・」
「もちろん」

そう言うと、小狼はさくらの額にキスをこぼした。秘密の恋人同士の、秘密の婚約。

「新月の夜も、満月の夜も、ずっとお側にいていいってことですよね」
「ああ。まぁ、その期間を取らずにすむように修行しないとな」
「小狼様がお望みであれば、いつだってさくらは側にいます」
「そのメイド口調・・・どうにかならないものか・・・」
「え?」
「いや、何でもない」

そう苦笑いして小狼が言う。
メイドたちのしゃべり方には生まれた頃からなので慣れていたが、自分の恋人がメイド口調なのは嫌だなと思ったのだ。

―― そうか・・・屋敷内でなければいいんだな

「さくら」
「はい」
「次の休日はいつだ」
「ほえ?」

突然休日の話をされてさくらがすっとんきょうな返事をした。
今、この段階で、自分の休日の話になるとは思っていなかったのだ。

「えと、特に休日は決まって無くて・・・」
「何?」
「決まった休日はないんです。まとまった休みは、申請したり・・・奥様が下さるんですが・・・」
「そう・・・だったな・・・」

メイドたちに決まった休日はない。
寝泊まりも館でしているため、家に帰ることもなく、普通に生活が出来るためだ。
帰省したり、外に用事があるときには、申請すると休みがもらえる。
ずっと休みがなかった場合や、家の者が別荘などに行くときには夜蘭が休みを与えるのだ。
それはどのメイド・執事にも共通したことだった。

「よし、じゃあ、おまえは土曜日が休みだ」
「はい?」
「何だ、不満か?」
「いえ、そういう訳ではなく・・・」
「おまえはおれに付いてるメイドなんだろう。なら休みの日くらい指定しても構わないだろ」
「では、すみれさんも、ですか?」
「ああ、すみれか。実はすみれは苺鈴が欲しいと言っていてな」
「め、苺鈴様が?」
「母上がこの間承諾したらしい。じきに別邸に移ってもらうだろう」
「そうだったんですか・・・ちょっと寂しいですね。すみれさんがいないと」
「苺鈴にはぴったりだ」

ふっと軽く笑って小狼が言った。
確かに、お元気娘な苺鈴と、キビキビしたすみれは馬が合いそうだ。苺鈴もすみれを好いている。

「で、あの、どうして土曜日をお休みに?」
「決まってるだろう。外で会うためだ」
「・・・・・・?」

当然、とでもいうかのように小狼は言ったが、さくらにはサッパリ伝わっていなかった。
むしろ、毎日顔を合わせているのに、わざわざ外で会う必要性がどこにあるのだろうかと思っていた。

「屋敷内ではおまえはメイドだ。だけど、外に出てしまえば関係ない」
「あ・・・」
「外では隣を歩いてもいいんだ。メイドらしいしゃべり方もしなくていい」
「それって・・・デート・・・ですか?」
「い、や、まぁ、そういうことだ」

顔を赤らめて小狼が言った。“デート”という言葉を使うのが恥ずかしかったようで、わざわざ口にしなかったのだから。
そんな小狼を見て、さくらがくすくすと笑った。

「小狼様、かわいい」
「・・・うるさい。可愛いのはおまえの方だ」
「!」
「母上には話しておく。詳細はまた、今度」
「はい」
「仕事があるだろう、戻っていいぞ」
「わかりました。小狼様・・・何かあったら、呼んで下さいね」
「ああ」
「いつものお時間に、アフタヌーンティーをお持ちします」
「二人分頼む」
「・・・はい」

“二人分”それは、ふたりでのティータイムを指す。この部屋に、他に人はいないのだから。

「あ、そうでした!」
「何だ?」
「今日はとってもお天気がいいから、お布団、干してもいいですか?」
「は・・・?あ、ああ・・・構わないが・・・」
「よかった。それでは、失礼しますねっ」

嬉しそうに言うと、さくらは持ってきたカートを連れて部屋を出て行った。

―― ・・・あいつは本当にわかってるのか・・・?

この状況、立場の変化、全てのことをさくらが理解したのかどうかつかめない小狼は、ぽりぽりと頭をかいた。

「まぁ、いいか。それがあいつらしい」

そう言うと、さくらが残していったスコーンに手を付けた。


―― すごいことになっちゃった!嬉しいことになっちゃった! どうしよう、顔が勝手に笑っちゃうよ

給仕室にカートを戻しながら、さくらはひとりでにこにこしていた。
午後のお茶はシフォンケーキとロイヤルミルクティーにしようと思いながら。

―― 小狼様、どの月が空にあろうと、お側に置いてくださいね


** Fin **