『一言二文字』







さくらは片付け終えた宿題のノートを閉じ、鞄に明日授業がある教科の教科書やノートを手際よく詰め込んだ。
時間割表を確認し、よし、と小さく声に出してから鞄を閉じる。

「おやつはホットケーキにして〜・・・」

背後からケルベロスの声が突然聞こえ、びくっとしたさくらは、ベッドで眠っているはずのケルベロスの姿を確認する。

「な、なんだ寝言か・・・」

ケルベロスがごろんと寝返りを打つ姿を見守ってから、小さく笑って机に向き直った。
綺麗に片付いた机の上には2通のエアメールが乗っている。
夕方、帰宅したときに郵便受けに入っていたものだ。
さくらがエアメールで連絡を取り合っている人物がいまのところ3人いる。
頻繁にやりとりしているわけではないため、こうして同時に2通届くことは珍しかった。

「・・・・・・よし」

未開封のエアメールのうち一通を手に取り、ゆっくりと封を開けた。
本当は帰宅後すぐに読みたかったのだが、雪兎が遊びに来たり、夕食の当番だったり、 宿題が今日に限って山盛りだされたりしていて今まで手をつけられずにいた。
封を切った手紙の送り主は、現在イギリスに住んでいる、かつての算数担当教師であり、クロウカード事件でもお世話になった観月歌帆だった。
綺麗な文字が女性らしい文面と共にびっしりと並んでいる。
魔法関係のことが一段落した今も、歌帆とさくらは時折こうして文通しているのだ。
先生だけど年の離れたお姉さんみたいで、さくらにとっては数少ない年上の女性相談相手になっている。
魔法の事も知っていて、さくらの周りの事情を知っている人たちはそう多くはない。
イギリスでエリオルと時々会う事や、スピネルやルビー(奈久留)のことにも触れられている手紙はにぎやかなイギリス生活を想像させるものだった。
そして、最後に一文、さくらへのメッセージがそえられて、手紙は終わっている。

『本当の気持ちを、たまには口にしてみるのも大切な事よ。相手には言葉にしないと伝わらないからね』

どういう意味だろうか・・・。
そう思いながら、さくらは歌帆からの手紙を再び折りたたむと封筒の中へと戻した。
そして、もう一通のエアメールを手に取る。
表に書かれた流ちょうなローマ字が示すのは、自宅の住所と自分の名前。
消印は香港。
差出人は、かつて共にクロウカード探しをし、その後の事件にも共に挑んだ仲間であり友人であり、今では恋人でもある李小狼だ。
全ての事件が終わったあと“香港でやらなければならないことがある”と言って帰国してしまったため、現在さくらとは遠距離恋愛状態である。

「・・・小狼君・・・」

小狼が香港に帰国してから、どれだけの月日が経っただろうか。
長いような、短いような・・・この間まで会えたような気もするのに、永く会っていない気もする。
小狼が帰国する日、バス停で“わたしの一番は小狼君だよ”と告げてから、一切会えていない。
基本的なやりとりは手紙で、電話は月に1度程度。
だいたい、次はいつ大丈夫?と予定を聞いてから、次回電話をする日を決めて、その日十数分だけ声を交わす、というやりとりを続けている。
国際電話は安くないため、安易に電話したり、長時間通話することは避けているのだ。
それに、手紙のやりとりもあるので、月に1度の電話でもそんなに問題ない。
だいたいは、さくらがしゃべって、小狼がそれに相づちを打ったりしている。
小狼はそんなに話し上手というわけではないからだ。電話越しに楽しそうに話すさくらの声は心地よく響くため、 小狼はいつもついつい“その話、聞きたい”とさくらに話をさせる流れを作ってしまう。
さくらもやさしく相づちをうってくれる短いけれどやさしい小狼の声が好きだった。
話し下手なのは手紙でもあまりかわらない。
恋人といっても、書かれている内容は決して甘いものではない。最長でも2枚程度。
香港の事や、家族や従姉妹の事や、さくらが書いた手紙の内容への返信が主だった内容だ。
そっと、手紙に書かれた自分の名前を撫でてから、さくらは丁寧に封を切った。
すると、封筒の中に見慣れないものが目に付いた。

「・・・なんだろ、これ」

手紙とは別に、一回り小さな白い封筒が入っていた。
手紙以外のものが入っている事は珍しい。 何かあったかな?と疑問に思いながら、封がされていない白い封筒を開けると、そこには1枚の写真が入っていた。

「っ・・・」

はらり、と写真がさくらの手を離れて机の上に舞い落ちる。
さくらはぎゅっと胸元をつかんだ。動揺しているのがわかる。

心臓がさっきまでの二倍のはやさで胸を打っている。ドクドクと打ちつける心臓が痛い。
ぎゅうっと胸がしめつけられて、呼吸が急に酸素不足に陥ったかのように苦しくなった。

「どういう・・・こと・・・?」

写真に写っているのは、当然、送り主の小狼だ。
そして、チャイナ服に身を包んだ同世代と思われる女の子だった。
仲良く・・・というよりは女の子の方が一方的に小狼の腕にからみついていて、撮影場所は自宅の庭と思えた。 小狼も“何をするんだ”というような表情をしているけれど、嫌そうではない。
小狼の家族構成は母親と姉が4人。女の子の外見年齢からして、明らかに姉ではないだろう。
では、一体誰なのだろうか。

── ・・・嫌だ

さくらは喉元にこみあげてくる思いをぐっと飲み下すと、写真を裏返しにして、封筒に残されていた手紙を開いた。
小狼と女の子が写った写真が一枚。たったそれだけのことなのに、視界がじんわりとぼやける。
目頭をぬぐうと、ぎゅっと唇をかみしめてから、紙に並ぶ少し不器用な文字を追った。
書かれた内容はいつもの話題と大して差はない。
その中に“従姉妹の写真が見たいと言っていたから同封する”という主旨の文面があり、さくらがハッと裏返した写真を見る。

「従姉妹・・・?」

もう一度、裏返しにした写真を表向きにする。
写真の中から、いたずらに笑うイトコの女の子と、苦笑いする小狼がさくらに視線を向ける。
イトコといえど、顔は似ていない。
小狼より低い背、くったくのない少しイタズラっぽい表情、さらりと伸びた黒髪ストレートのロングヘア。 赤いチャイナ服がよく似合う中国系美少女だ。

「李、メイリンちゃん・・・名前もかわいい」

李苺鈴は正真正銘、小狼のイトコだ。幼い頃は「小狼と結婚する!」とか「許嫁よ!」 なんて言っておてんばをしていたこともある程度には仲の良い親戚にあたる。
小狼が日本にいた間は当然離れていたことになるが、それでも仲が良いことは変わりない。
前回小狼に送った手紙で、確かに“イトコさんの写真見てみたいな”なんて書いたことを思い出した。
小狼の送ってくる手紙で時々登場する同年代の人物は、主にこのイトコだったからだ。

「そっか・・・わたしが見たいって言ってたから、送ってくれたんだ・・・」

── それなのに、こんな嫉妬するみたいな気持ち・・・

さくらは読み終えた手紙をそっと封筒に戻した。
写真の中の小狼をあらためてじっと見つめる。

── 少し大人っぽい・・・背とか伸びたのかな・・・。チャイナ服姿、そういえば見た事なかったな・・・

確かに隣にいた存在だったのに、ふいに、とても遠く感じられた。

── ・・・いつのまに、こんなに、好きになったんだろう・・・

側にいないのに。会えないのに。知らない事の方がどんどん増えていくのに。
“好き”だけが降り積もっているようだった。
雪兎に恋をしていたときとは違う。もっとずっと、際限がない。
今思えば、雪兎に対して抱いていた思いには“憧れ”が多かったんだと気付く。
小狼に“憧れ”はない。“好き”の種類が違うのだと、気付かされる。

「わたし・・・いつになったらちゃんと小狼君に言えるのかな・・・」

さくらは小狼に面と向かって“好き”だとは告げていない。
小狼は自分にきちんと“好きだ”と言ってくれたのに、別れ際には、たった一言、たった二文字を言う余裕もなかった。 もっと大切な事を伝えたかった。“一番”は小狼だと。
でも、今思えば、きちんと言っておけば良かったと思わずにはいられない。
さくらは小狼に“好き”だと言っていない事に気付いてから、電話でも手紙でもなく、 きちんと直接会って“好き”だと言いたいとずっと思っているし、そうしよう決めている。
それに、電話や手紙では少し気恥ずかしいし、どう切り出したらいいのかわからない。
そっと、写真に写る小狼の姿を指でなぞった。

── いいな・・・この子は小狼君の側にいられるんだ・・・

親戚の女の子に嫉妬するなんて、と思いながらも、羨ましくなってしまう。
自分は、こうして文字を追いかける事しかできないのに。月に一度、声を聞く事しか出来ないのに。
そう思うと、急に小狼の声が聞きたくなってくる。

── でも、次の電話は20日にって決めたもん

前回電話をしたときに決めた日付にカレンダーに赤ペンで付けた印を確認する。まだあと半月近くある計算になる。
でも、一度声が聞きたいと思ってしまうと、どうしても止まらない。
ふと目に付いた歌帆からの手紙。最後の一文を思い出す。
『本当の気持ちを、たまには口にしてみるのも大切な事よ。相手には言葉にしないと伝わらないからね』

「・・・先生、それって、わがままでもいいのかな・・・」

電話をぎゅっと握ると、ゴンッと額を打ちつけんばかりの勢いで机に突っ伏した。
この機械ひとつで、香港につながる。
ボタンを押すだけで、声を聞く事ができる。

── 今、9時半過ぎか・・・香港は一時間時差があるから、8時半すぎくらい・・・

穴があきそうなほどじいっと電話の液晶パネルに表示された現在時刻をにらみつける。
まだ、電話をしても迷惑になる時間ではないだろう。
でも、突然電話なんてしたら、きっと驚かせてしまうにきまってる。
何かあったんじゃないかって、絶対に心配させてしまう。

── でも・・・それでも・・・!

意を決して、小狼へ繋がる電話番号をダイヤルした。
この電話番号は小狼の部屋への直通だと聞いている。他の人が出て、中国語で対応される事はまずない。
国際電話なので、相手がさくらだということも向こうには受話器を取る前からわかるだろう。

── ひとこと、だけでもいいの

何度目かのコール音のあと、プツッという電子音でコールが途切れる。
そして

「・・・もしもし?」

という、少し低い声でひびく日本語。

「っ・・・」

いつもなら喜ぶところだ。
すぐに“こんばんは、さくらです”と言って、久しぶりだねって話すところ。
笑って、笑顔で、嬉しい声で。
でも、今日はなぜか胸が詰まって、声にならなかった。

「あ・・・の・・・」
「・・・さくら?どうしたんだ?何かあったのか?」

前に電話したときから二週間も経っていない。
なのに、小狼の声がなつかしくて、愛しくて、思わず涙が出た。

── この声が、ききたかった

「・・・泣いてるのか?」
「・・・・・・ううん、違うの。何でもないの。ごめんね。・・・あのね、お手紙届いたの。ありがとう」
「あ・・・!そうか」
「その・・・写真、ありがとう」
「・・・あの、さ・・・その、ごめん、な」
「どうして謝るの?」
「写真。あれ、あとでイトコに・・・苺鈴に見せたら、怒られたんだ」
「怒られたの?」
「女の子にツーショット写真送るなんて無神経すぎるって」
「・・・・・・」
「その、苺鈴は本当にただのイトコだから・・・!」
「・・・うん、わかってるよ」

小狼が“イトコに怒られた”と言うので、さくらは心の中でくすりと笑った。
気がつかないところが小狼君だなあ、なんて思いながら。

「そ、それで、どうしたんだ?」
「え?」
「電話・・・今度は20日にって言ってたのに・・・」
「あ・・・・・・」

小狼が必死にあやまっていたので少し忘れてしまっていたけれど、 そもそも電話をしたのは手紙が届いた報告をするためじゃないことに気がついた。
声を聞きたい、それだけだった。でも・・・
歌帆が手紙で書いていた言葉が頭をよぎる。

「・・・小狼君、あのね、今から言う事・・・忘れて」
「は?」

意を決したように、さくらがぎゅっと手を握った。
言う事を忘れて、なんておかしいと思う。
言いたいと思うのに、負担になりたくなくて、でも気にしなくていいよとは言えなくて・・・。
それなら、忘れてくれていいと思った。
これはただの一人言みたいなもので、とてもわがままなことで、どうしようもないことなのだとわかっているのだから。

「声がききたかったの・・・お話ししたかったの」
「・・・・・・」
「・・・さみしい 逢いたい・・・一緒にいたい・・・小狼君に・・・逢いたいよ」
「・・・・・・・・・」
「・・・ごめんね、忘れてくれていいから。ただね、言いたかっただけなの。ごめんね」
「・・・忘れない、絶対。忘れないから」
「っ・・・」

真剣な声がまっすぐにさくらの耳に届く。
その声に耳が熱くなって、また涙がこぼれそうになる。
さっきまでとは違う思いで、胸がぎゅっと苦しくなるのを感じた。

「・・・さくら、今からおれが言う事、忘れないでくれ」
「なに?」

さくらが“忘れて”と言ったのと反対に、小狼は“忘れないで”と言った。

「おまえが好きだ」

距離をこえて届くその言葉に、返事をするかわりに瞳から涙がこぼれ落ちた。
“好きだ”という言葉を聞いたのは、これが2度目だ。
最初に言われたときは驚いてばかりだった。動揺したし、混乱もした。
でも、今は、嬉しくて、愛しくて、大切で、すこし恥ずかしい。
こんなにも、ドキドキする言葉だとは思わなかった。

「・・・さくら?聞こえてるか?」

あまりにも反応がない受話器の向こうを心配して、小狼が少し照れたような不安げな声で言った。
その声にさくらがあわてて涙をぬぐってから言葉を返す。

「うんっ、うん、聞こえてるよ」
「よかった」
「わたしも、だよ、小狼君。わたしも・・・小狼君の事・・・っ」
「・・・ああ」
「・・・忘れないよ、絶対に。忘れたりなんかしないよ」
「ああ」

やさしい声で小狼が短く返事を返す。きっと、受話器の向こうの香港で、小狼が微笑んでいるだろうとさくらは思った。
今、ここに、小狼がいたら、きっと抱きついて思い切り泣いてしまったと思う。
たった一言の返事がやさしくて、小狼らしくて、なつかしくなった。
もっともっと逢いたくなる。けれど、それは今は叶う事のない願い。
こうして、繋がる声だけが、ひどくやさしくて残酷にも思えた。

「あ、すまない。呼び出しがかかった」
「ううん、急にお電話してごめんなさい。・・・ありがとう」
「・・・また20日に、かける」
「うん。待ってるね」
「じゃあ、またな」
「おやすみなさい」
「・・・おやすみ」

ぷつりと切れた音声を確認してから、さくらは通話終了ボタンを押した。
声が聞こえたときは近くにいるような、そんな気さえしたのに、突然押し寄せる部屋の静けさに、その距離を感じずにはいられなかった。

「・・・だいじょうぶ、大丈夫だよ・・・」

ぎゅっと、電話を握りしめる。

── 好きだって言ってくれたのに、また、わたし、言えなかったな・・・
    次に小狼君に逢えたときには、きっと一番に、好きだって言おう。
    ちゃんと声にして、ちゃんと小狼君にわたしの気持ち伝えよう・・・

机の脇に置いてある、小狼お手製のテディベア『小狼』のことを見て、ぽんぽんっと軽く頭をなでた。

「ねえ、小狼君・・・わたし、小狼君が好きだよ」

誰に届く事もない声が夜の部屋に小さく響いた。


2014.01.02