「人魚の涙」番外編〜透也と連斗〜


それは、二人が中学2年の5月の連休のことだった。
3月に行われた発表会で、連斗の伴奏をしてくれた人が出場するというピアノコンクール2次予選会場。
よかったら聞きに来て、と言われて足を運んだ。
そして、そこに、2年から同じクラスになった同級生を発見したのだ。
瀬川透也。
正直に言って、連斗は混乱した。
透也は部活には入っていないし、音楽なんてやっているそぶりもなく、話題もなく、 運動部の助っ人に引く手あまたの運動ができるクラスメイトだったからだ。
そんな彼が弾くピアノは、想像以上に上手く、連斗の興味をひきつけるには充分すぎるほどだった。



「今日からの音楽の授業は器楽!合奏!教科書に載ってるのでも、他の曲でもいいから、 グループ作って各自練習すること。わからないことは、お互いに教えあうでもよし、 聞きに来るでもよし。楽器も編成も自由にしてくれて構わないので、一曲仕上げるように。 一ヶ月後に発表しあって成績つけるぞー」

連休明けの最初の授業は音楽だった。
好きに集まって合奏しろ、というのだ。なんという投げやりな授業か、とも思うが、 そこは“生徒の自主性を尊重”という都合の良い言葉がカバーしてくれるらしい。
楽器も曲目も編成も自由。
それを聞いた連斗が、朝切り出せなかったことを切り出すのにちょうど良い、と透也に歩み寄った。

「瀬川、おれと組まない?」
「立宮・・・なんで?」

なかよし女子グループや、掃除などで分けられている班組、近くの人、 部活の仲間などなど、クラスメイトがざわざわと合奏相手を探す中、接点がなかった二人が向き合った。
連斗も透也も特に仲が良いわけではなかった。
出席番号は近くても、お互いに全く違うタイプだと思っていたから気にしていなかった面もある。

「実はさ、おれ、一昨日コンクール会場にいたんだよね」

この、他の人が聞いたら意味の通じなさそうな台詞が、全てを物語っていた。
連斗が、透也はピアノを弾く人なんだ、と知っている。
やけに勝ち誇ったような笑みを浮かべて透也の前に立つ連斗が、透也には少しムッときた。

「ちょっとこっちこい」

自由時間のように解放されている音楽室の片隅に、透也が連斗を引っ張っていく。
何もそんなに威嚇しなくても・・・と呆れつつ、連斗はおとなしくついて行った。

「・・・マジでいたのか?」
「・・・・・・ベートーヴェン、ピアノソナタ「月光」第三楽章。おまえ、コンクール向きじゃないな」
「はあー・・・ホントにいたのかよ」

連斗が言ったのは、透也がその日弾いた自由曲だ。
ピアノコンクール二次予選、透也は最終選考には残らなかった。
そのことまでキッチリ把握していることから、連斗が会場にいたのは疑いようがなかった。

「おまえがピアノ弾けるとか知らなかった。隠さなくてもいいのに」
「別に隠してないし。機会がないだけだ。話題にもならないし」
「・・・なるほど、それもそうだ」
「で?おまえ、あの場所にいて、俺と組もうっていうなら、何か出来るんだろ?まさか連弾?」
「まさか!やめてくれ、ピアノは少しは出来るけど、おれはおまえみたいには弾けないよ。おれ、 ヴァイオリンやってるんだ。コンクール見に行ったのも、伴奏でお世話になった人が出てたからだよ」
「ヴァ・・・まじかよ。初耳なんだけど」
「言う機会がないだけだ」
「・・・で?腕前は?」
「さあ・・・そこそこだと思ってるけど」
「ふうん・・・そこそこ、ね・・・」

コイツがヴァイオリンねえ・・・。
そう思いながら透也がまじまじと連斗を見つめる。
立宮連斗。
見た目からしてインドア派、ぱっと見文系。ひょろっとしてるし、 サラサラの髪は優等生っぽいし、わりといつもにこにこしてるのに、言うことは言うヤツ。
部活には入っておらず、透也とは接点がないため、これ以上のことはサッパリわからなかった。
本当にこんなやつがヴァイオリンを弾けるのか?と疑ってしまう。
でも、コンクール二次予選に上がってくるような人が伴奏を引き受けるということは、下手なわけではないだろう、と見当を付けた。

「この学校あったかなあ・・・。先生!楽器は何でも良いって言ったよね?」
「おお、瀬川。いいぞ。学校になければ持参してもいいけど、そこそこの楽器にしてくれよー」
「準備室にある楽器は使っていいんすか?」
「おー使え使え。早い者勝ちな!」

その透也と教師の大声の会話を聞いて、他のクラスメイトたちもざわざわとし始める。
楽器は準備室にあるモノを自由にしていいと聞いたからだ。
音楽に不得手な人は、手軽な楽器でどうにかならないものか、と考えを巡らせていた。
そう、リコーダーや鈴、タンバリンなどなど・・・小学校で習うものたちだ。

「さーて、見てこようぜ?」
「いや、うちの学校管弦楽部あるんだし、普通に考えてあるだろ・・・」
「管弦楽部・・・やっべ、把握してなかった!」
「おいおい・・・」
「じゃあ、なんで部活入ってないわけ?管弦楽部あるなら入ればよかったじゃん」
「オケは苦手。高等部行って、オケに興味あったらでいいかってね」

そんなことを言いながら、二人で隣接している音楽準備室に足を踏み入れる。
数々の楽器が所狭しと収納されているそこは、少しほこりっぽいニオイがした。
弦楽器のコーナーを見つけると、ヴァイオリンの棚を探り、透也が部員の名前が書かれていないものを見繕う。
幸い、ヴァイオリンは数のいる楽器なので予備も多く、使えそうだった。

「・・・試しに弾かせようと思ってる?」
「当然。レベルが合わないヤツとペアでやる気はない。その辺の奴らにまざって上辺でやってる方がマシ」
「生意気」
「俺に声をかけたおまえが悪い」
「・・・曲は?何かある?」
「俺はピアノ曲しかわかんないから、教科書からなんか見繕えばいいんじゃね? 歌の授業でやったヤツならメロディーもわかるし、伴奏も載ってるし」
「・・・その手があったか」

連斗が透也の出したヴァイオリンケースの中身を確認すると、ひとつを手に取り準備室をあとにした。
クラスメイトたちは机を寄せ合ったり、集まったりしながりしながら、何をやるかということで会議している人が大半だった。
こんな大人数じゃできねえよ!ということから、半分に分かれたりしているグループもある。

「センセー、ピアノ使っていい?」
「何、おまえら、もう決まったの?デュエット?」
「いや、そのための審査的なものかな」
「・・・瀬川、ピアノ弾けたっけ?」
「そこそこですよ」
「まあ、好きに使え」
「ありがとーございまっす」

ピアノの使用許可を取ると、慣れた手つきでグランドピアノのフタを開けた。
そして、慣れた手つきでピアノの椅子の高さを調整し、さっと座る。
片手に持っていた教科書をパラパラとめくり、さて何があるかなーとめくっていった。

「おー、下巻のこれなんてどう?滝廉太郎の「花」!有名曲だから知ってるだろ?」
「おまえ、さっき歌の授業でやったやつって言わなかった?それやってないだろ」
「良い曲がなかった。だいたい、やったやつって1年の教科書だし、鑑賞でやったやつじゃ楽譜ないし」
「まあ、有名曲だから知ってるけど・・・知ってるけどやったことないぞ!」
「俺だって初見だ」
「ふざけんな」

ヴァイオリンをケースから出し、ピアノの上に置くと、自分の席から教科書を持ってきて透也が言った曲のページを開いた。
中学2年で下巻の教科書は使っていないため、折り目もついてなく、真新しいニオイがする。
ぎゅっと開きをつけて譜面台に置くと、どれどれ・・・と譜面を確認する。

「うおー、やべえ、案外難しいかもしれん」
「ベートーヴェン弾いてたヤツが言うな」
「立宮君きびしー」

音を出さずに鍵盤をなぞり、伴奏の確認をしていく透也を見て、あれだけ弾ければ・・・と連斗が思う。
どんな曲も、初めての時があるのは当たり前だ。初めて弾く、という瞬間があるのはどんな曲にも共通。
知らない曲を楽譜からさらうより、耳慣れた曲のほうが簡単なことは間違いない。
それが、練習ではなく、ぶっつけ本番だ・・・という点は少々違うけれども。
この曲は歌曲であり、メロディーラインは連斗のものだ。当然、難易度は連斗の方が下がることになる。
伴奏を聴き耳立てて聞く、なんてことは、よほどのことがない限り有り得ないからだ。
透也は自分から提案した以上あとにはひけず、見開きですっぽり収まる程度しかない短い譜面にかじりついていた。
連斗はそんな様子をちらりと見てから、まあ別にいっか・・・と思いながら、慣れないヴァイオリンを手に取った。
連斗が所有するものよりも色が濃く、少し重いような気がする。
一つ基本の弦をはじくと、本来なら有り得ない音が鳴った。

「当然だよなー・・・使ってないんだから、音が合ってるわけないよな」

そうつぶやきながら肩にあて、弓を持った。
この狂ったヴァイオリンの音合わせをするためだ。

「瀬川、音くれないか。コイツ狂ってる」
「おー、何の音?」
(アー)
「了解」

ポーン。
高らかに、正確に鳴らされた、指定された「A」の音。
お互いに、これだけで“それなりにやってるやつだ”と再認識した。
まず、素人や全国チェーンのいかにも“習い事”という音楽教室に通っている日本人から「アー」の音をくれ、 という指示は出ないし、この指示で瞬時に音が鳴らせることはない。
日本の学校教育では、音階は「ドレミ」というイタリア語読みで教えるのが基本であり (知識として「イロハ」も使うが、これは調や日本の楽器でしか用いられることがない読み方)「A」はイタリア語では「ラ」だ。
だが、クラシック音楽業界では違う。連斗の言った「アー」はドイツ語だ。英語でも読み方違いで用いられるが、 クラシックの世界ではドイツ語で用いられるのが基本だ。それが通じる、ということは音楽をそこそこ専門的にやっている人間だという証だった。
高らかに鳴らされた音楽の基本の音である「A」。
その音に合わせて、連斗がヴァイオリンの音を調整していく・・・のだが、 その音をきっかけにクラスメイト全員がピアノの方を振り向いてしまった。
楽器の音がしていなかったところに、突如ピアノの音が鳴れば、振り向かざるをえない。
しん・・・とする教室内に

「ほらほら、ぼーっとしない!曲決めたのか?ん??」

という教師の大きな声が響き、室内にざわめきがもどった。
その内容の大半が、瀬川がピアノ!?立宮がヴァイオリン!?なんで!?というものではあったが・・・。
気にしてたら進まない、と判断した連斗が、透也に「もう一回頼む」と音出しを頼み、今度こそ狂ったヴァイオリンの音を調整し始めた。
じゃあ俺も音だそー、と透也がピアノの鍵盤を軽く叩き始め、譜面の音をさらっていく。
そんな様子を音楽教師が「へえ・・・」と感心しながら見守っていた。

「よし、こんなもんかな。さすがに使ってない楽器は狂いまくってるし、慣れないなー」
「ま、試し試し。んじゃ、曲はさっきのでいい?」
「おまえ、了承も得ずに練習してたじゃないか。いいよ、その代わりテンポ落としてくれよ」
「ほぼ初見で、書いてあるとおりに弾けるかっつーの!ほどほどでやるから、そっちはご自由にどうぞ。とちっても気にしないでくれ」
「・・・なあ、これ、おれの腕試し的なやつなんだよな?」
「そうだけど」
「なんでソルフェージュの試験みたいなことしてんの、おれら」
「共通して知ってる弾き慣れた曲みたいなのがないんだから、仕方ないだろ」
「いや、そうじゃなくて、おれの腕試しならヴァイオリンソロでも良くないかって話」
「おお・・・そうか。考えなかった。でも、おまえ、この中でひとりで弾く気あんの?」
「ない」
「んじゃ、やってみますかー。楽しみだねー。ついてこれるかなー」
「瀬川、おれのことバカにしてるだろ」

呆れたようにそう言うと、連斗はヴァイオリンを構えた。
ふうっと一息つく。

「よろしく」
「りょーかい」

そう言うと、透也が前奏を弾き始めた。

(おいおい、初見っつっただろ・・・?)

その弾き始められたテンポは、指示されているものからすれば明らかに遅いが、ヴァイオリンで弾くには充分すぎるテンポだった。
初見のわりに、音には迷いがなく、しっかりと奏でられている。
始まった演奏にクラスメイトが再び振り向きあっけにとられて黙ってしまったため、意図せず演奏会状態になってしまった。
今回ばかりは教師も止めに入らない。

(あーあー、おれたちのことなんて気にしないでくれよ・・・初見で初合わせだっつの!見せられるもんじゃないってば)

内心そう思いながらも、この綺麗な曲にそんな気持ちではダメだ、と連斗は意識を切り離した。
そして、メロディーを弾き始める。
美しい春の曲。
川のせせらぎのような軽やかな伴奏メロディー、旋律は軽快でありながら滑らかで、歌うのに苦がないように作られている。
いくら知っている曲とはいえ初見のため、二人とも必死に楽譜にかじりつきながら1番を弾き、 その楽譜の指示通りに間奏を弾いてしまったがために、2番まできっちり演奏することになってしまった。

「・・・・・・」
「・・・・・・」

わっと思わず送られるクラスメイトたちからの拍手。
演奏しおえたあと、たっぷり5秒はお互いを見て、そしてお互いにニッと笑い合った。
初見でここまで合わせられるなら、文句はない!
弾いている間にも空気を読みあい、1番は透也が提示した前奏のテンポを維持していたが、 間奏以降、連斗が・・・いや、ヴァイオリンが歌いやすいようにテンポを落としていたのが、クラスメイトにはわからずとも、教師にはわかった。

「いやー、おまえら、すげーのな」
「先生」
「知らなかったぞー、瀬川がピアノ弾けて、立宮がヴァイオリン出来て、二人ともハイレベルなんて」
「ハイレベルなんて事はないですよ。初めてだったんで、超必死でした」
「有名曲あなどったよなー!でも、なかなか良かったぜ、立宮」
「瀬川も。途中から合わせてくれてただろ、サンキュ」

どうやら、コイツの弾けるレベルはこんなもんじゃないぞ。
そう透也は思った。ヴァイオリンなんて全く詳しくないうえに、興味のカケラもなかったが、 どれくらい弾けるのか聞いてみたい、今度伴奏譜もらうか・・・なんて思ってしまっていた。

「ほらほら、自分たちの作業する!」

ピアノに視線が釘付けになっていた生徒たちに、教師がパンパンと手を叩いて一喝する。
ああ、いけね。
すごい、カッコイイ!
あんなレベルと一緒にやらなきゃなんないのかよ。
俺、楽譜読めない。
なんていう声が聞こえてきながら、授業が再開された。

「で、瀬川。おまえ、どれくらい弾けるんだ」
「いやー、そこそこですって」
「先生、コイツのそこそこは信用しないほうがいいですよ。この間のコンクール二次予選までいってましたから」
「ほほう・・・それはそれは。で、立宮は?」
「そこそこです。コンクールとか出たことないんでわかんないですし」
「なるほどね。じゃ、二人にはいい合奏期待しておくよ」

そう言うと、音楽室内の巡回に教師は向かった。
ひとりの演奏者としてはもっと専門的につっこみたかったが、教育者としては他の生徒たちをおざなりにできない。
あの二人は放って置いてもよさそうだが、音楽なんて学校でしかやらないという子供たちには、 この合奏の授業は難易度が高いはずで、助言して回らないと進まないことは明らかだからだ。

「それで、瀬川」
「透也でいい」
「・・・じゃあ、透也。おれとやる気になった?」
「当然!よろしく、連斗」

スポーツマンか!という勢いで透也が握手するために手を差し伸べたので、連斗が弓を置いてそれに応える。

「俺、伴奏とか経験ないから、まあ最初の方は色々許せよ」
「ソロと伴奏は違うもんな・・・って、そういう曲選ばなきゃいいんだってさっき言ったじゃん」
「一曲で終わるとは限らないって話さ。そういえばさ、おれにコンクール向きじゃないって言ったじゃん?なんでそう思ったわけ?」
「・・・感情的すぎる、と思っただけだよ。コンクールは演奏会じゃない」
「感情的・・・ね・・・選曲がいけなかったかな・・・」
「いや、悪い意味じゃないんだけど・・・コンクールってそういうのより技術だろ」
「瀬川、何弾いたんだ?」

一周回って戻ってきた教師が話しに首を突っ込んだ。
ピアノ専攻で大学を卒業した身としては、気になるらしい。
答えたのは透也ではなく、連斗だった。

「ベートーヴェンの月光三楽章」
「難易度たっかいとこいくなあ・・・今度弾いてよ」
「日にち経ったら指が忘れそう」
「今弾くにはちょっと曲がインパクトありすぎだから、ま、今度で。ベートーヴェンいいよなー」
「俺はモーツァルトの方が好きだけど」
「意外だな」
「連斗は?」
「おれ?おれは・・・弾けないけど、聞くならもっと近代だな。ショパン、ラヴェル、 リストあたりとか。ああ、でもモーツァルトも好きだけど」
「おまえら、ほんと本性隠してたんだな・・・」
「先生、機会がなかっただけですって」
「そーそー。歌ばっかうたう授業じゃ俺たち出番ないから!」
「期末試験楽しみにしておくぞ」

そうこうしてるうちにチャイムが鳴り響き、ごく一部だけハイレベルな音楽の授業が終了を告げた。
こうして、瀬川透也というピアニストと、立宮連斗というヴァイオリニストが出会った。
後々の合奏の発表の場ではショパンの「別れの曲」のヴァイオリン用編曲バージョンを演奏した。
エルガーの「愛の挨拶」とどちらにしようかと協議した結果、もともとがピアノ曲である方を使おう、ということになったのだ。
思っていた以上に透也の伴奏は心地よく、連斗のヴァイオリンも透也に相性がよかった。
演奏の息づかい、曲への解釈や好み、そして性格の相性。
この授業一回で終わらせるには惜しかったため、すっかり仲よくなった音楽教師とのコネも使い、 ほとんど使われない第三音楽室などを使わせてもらったりして、デュオを楽しむことが増えていった。
そして、3年後、この二人組にひとりの歌い手が参加することになるのだった。


2015.03.14.  奏音音色